伝説の助っ人ブライアントを訪ねて 近鉄時代の記念品は…いずれ野球殿堂博物館に寄付か
自宅で出迎えてくれたブライアント。現在はアトランタ郊外の閑静な住宅街で一人暮らし 【丹羽政善】
さすがに、家中を撮影することははばかられたが、トイレもきれいで、台所のシンクには、汚れた食器などいっさい残っていなかった。
実は、ブライアントの家を訪ねるのは今回が2度目。前回もそうだったことを思い出し、「すごくきれいにしている」と伝えると、「一人だから、動く範囲も、使う場所も限られる。たいしたことじゃない」とこともなげに答えた。
「小さな子どもでもいたら、別だと思うけど」
いやいや、それでもあそこまできれいに保つことは難しいのでは――。
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一人暮らしで不安になることは…
部屋には近鉄時代のお宝が整然と陳列されている 【丹羽政善】
さまざまなトロフィーや盾が棚に整然と並べられ、賞状も丁寧に壁に飾られていた。コーヒーテーブルの上には雑誌が数冊だけ。ホームランか三振か。そんな豪快なイメージとは大きく異なる。
無造作に置かれているように見えるバット、棚の上のサインボールにも埃(ほこり)はなく、定期的に掃除をしていることがうかがえる。それぞれが大切で、思いが込められているからこそだと思うが、だからこそ、「不安になることもある」とブライアントは話す。
「自分が死んだら、どうなるんだろうってね。子どもは自分の現役時代のことを知らない。ヘルメットなんてガラクタにしか見えないんじゃないかな(笑)。だったら、ちゃんと保管してくれるところに譲るということも選択肢かな」
まだまだ若々しく、普段は天気が良ければ、近くのゴルフ場に出かける。
「さすがにもう、フルスイングでバットを振ることは怖い」と笑うが、健康そのもの。ただ、“いつか”を意識し、お宝を日本の野球殿堂博物館などへ寄付することも考えているそうだ。
日本との縁「運命には逆らわない」
近鉄バファローズの長距離砲として活躍したブライアントはフルスイングで何度もボールをスタンドへ放り込んだ 【写真は共同】
ということで、なぜ、彼が今も「最高の助っ人のひとり」として語り継がれているのかを少し紹介したい。
もともと入団したのは中日である。その年の春、中日がドジャースのキャンプ地でもあるフロリダ州ベロビーチでキャンプを張ったのが縁。2チームの親善試合で、「確か、ホームランを打った」とブライアントは記憶する。数日後、フレッド・クレアという当時のゼネラルマネジャーに呼ばれたブライアントは、「『中日が欲しいと言っているけど、どうする?』と打診された」という。
「てっきり、他球団へのトレードだと思ったら、まさか、日本の球団とは」
ドジャースに残っても、出場機会が保証されているわけではない。かといって中日でも、郭源治とゲーリー・レーシッチがいて1軍は保証されない。即答は避けたが、日頃から、「運命には逆らわないようにしている」とブライアント。「日本へ行く話も、何かそうなるべき理由があったのだろう」と考えて、受け入れたそうだ。
結果的に、それは間違っていなかった。
5月に来日し、約1カ月は寮で生活しながら2軍でプレー。毎朝6時45分に起床すると、ナゴヤ球場で軽く体を動かし、寮に戻って朝食。その後、午前11時から試合があった。「あれは聞いていなかった」と苦笑したが、「あの1カ月は、真剣に野球と向き合った。学んだことも少なくない」と振り返る。
「その後のキャリアにおいて、礎となった」
もちろん、すべてがスムーズだったわけではない。
「日本食のことは何も知らなくて、寿司はネタをあぶって食べるものだと思っていた(笑)」
よって食生活への適応は苦労したが、寮の食堂では、ブライアント用の食事が用意されたという。「そのことは今でも、感謝している」と懐かしげに振り返った。
スポーツナビ公式YouTubeチャンネルでブライアントの自宅を訪問!お宝を紹介【前編】