バド混合・渡辺&東野ペアが歴史を変えた 震災を乗り越え、飛躍のきっかけに

平野貴也

前日は敗戦のショックで食欲を失ったが…

渡辺勇大(左)と東野有紗のペア、愛称“ワタガシ”が日本勢初のバドミントン混合ダブルス銅メダルに輝いた 【Getty Images】

 被災地が育てた2人が、歴史を変えた。東京五輪、バドミントン競技の混合ダブルスに出場している渡辺勇大/東野有紗(日本ユニシス)は30日に3位決定戦でタン・チュンマン/ツェ・イエンスエット(香港)を破り、この種目で日本勢初となるメダルを獲得した。

 多くのサポートが、彼らの躍進を引き出した。日本バドミントンで男子初の五輪メダリストとなった渡辺は、2種目に出場していたこともあり「素直にうれしい。2人で最後まで諦めずにプレーした結果。(男子ダブルスのパートナーである)遠藤さんも昨日『切り替えて頑張れよ』と言ってくれたので、3人で獲った銅メダルだと思っています」と、2人のパートナーに感謝を示した。

 遠藤大由(日本ユニシス)との男子ダブルスでは準々決勝で敗退。前日に両種目で目指してきた金メダルの可能性を絶たれたが、3位決定戦が残された混合ダブルスで、快挙を果たした。東野は、前日の準決勝に敗れたショックで食欲を失ったというが、奥原希望(太陽ホールディングス)ら日本代表女子の先輩たちから励まされ、翌日の準備に気持ちを切り替えたという。
 試合では、先輩たちに支えられて力を取り戻した若いペアの勢いが出た。第1ゲームは、積極的に強打で攻めた。終盤で相手に粘られたが、21-17でゲームを先取した。相手は左利き同士で組む珍しいペア。右利きの相手と同じように配球すると、左フォアの強打を受ける。渡辺は「頭を使って、相手のバックハンド側でラリーを展開したり、フォア側で展開されているときはミス待ちくらいで良い(と割り切ったり)」とミスの少ない配球の中で、相手に攻め手を与えないように工夫していたことを明かした。

 また、第2ゲームは10-15と苦しい展開に追い込まれたが、じりじりと追い上げた。風上に立った相手の球が伸びるため、低い球を使って相手の男子選手の強烈なスマッシュを回避した。ただ、パワー勝負は避けたいが、球が低くなると、スピードラリーの勝負になりがちで、海外勢に比べると小柄な2人にとっては、これも簡単ではない。その中で、渡辺は積極的にバックアウトの判定を狙った。角度のついていない球や、コート奥を狙うために力を入れる球は、追い風を受けると、伸び過ぎる。何度か判断を誤った場面もあったが、結果的に得点の4分の1強を相手の強打やクリアのバックアウトによる点で拾うという頭脳プレーを披露して逆転。3度目のマッチポイントを迎えた22-21、渡辺の打った球が相手女子選手のラケットを弾いて勝利。2人はコート上で抱き合って喜んだ。

 緊張から解放され、涙があふれた。バドミントン日本代表は、近年の好成績からメダル量産を期待されていたが、男子シングルスの桃田賢斗(NTT東日本)が予選で敗退する波乱に巻き込まれるなど調子が上がらず、この日も前回女子シングルスで銅メダルを獲得した奥原が準々決勝で敗退するなど苦戦が続いた。ただでさえ緊張する初の五輪で、チームの中のけん引役が先に敗れ、余裕がない中でのメダルマッチ。渡辺は、緊張との戦いを次のように振り返った。

「もう本当に素直につらかったですし、しんどかったですし、いろんな期待とかプレッシャーに押しつぶされそうで。会場に来るまでも本当に逃げ出したくて、試合をしたくないっていう気持ちはたくさんありましたけど、やるしかないと腹をくくって、2人で、内容はいいとは決して言えないですけど、最後は気持ちのぶつかり合い。(東野)先輩に声かけてもらって、僕が折れそうになっても踏ん張らせてくれて。最後は本当に2人の気持ちだけの勝利だったかなというふうに思っています」

福島育ちの先輩と後輩、パートナーに感謝

福島で育った先輩と後輩。震災を乗り越え、ペアを組んだ10年目に大輪の花を咲かせた 【Getty Images】

 互いが頼れる存在に成長し、力を合わせた結果だった。2人は、福島県の富岡中・高で先輩、後輩。中学時代、東野が2年、渡辺が1年だった2011年の春、東日本大震災で被災した。3年生の卒業式を終えて専用体育館の練習している中、蛍光灯が落ちる恐怖に怯えながら避難した。東京電力福島第1原発から10キロほどの距離で警戒区域に指定された学校には戻れなくなり、バドミントン部は内陸部にある猪苗代中の校舎を借りたサテライト校で生活(その後、新設されたふたば未来学園中高へ移管)。専用体育館もなく、練習時間も限られ、強豪校としてのメリットは大きく削られた。

 しかし、2人は震災を競技人生の前進のきっかけとして乗り越えてきた。ラケットさばきが器用でスピードが必要なダブルスに向いたプレースタイルの渡辺は、アイデアもある選手だが、気持ちにムラがあった。中学時代に2人を指導していたふたば未来学園中の齋藤亘監督は「1年生のときは、親元を離れてすぐ。東京のクラブでの練習は週に何回かだったのが、バドミントン漬けの生活になり、つらくて家に帰りたいと言っていました。それが、震災によって、バドミントンをやりたくないなんて言っていられない環境になってしまいました。そこから、彼は福島でバドミントンをやれることの意味などを感じていったのではないかと思います」と練習に臨む姿勢が変わっていった当時を振り返った。

 東野は、震災の思わぬ副産物が飛躍のきっかけとなった。専用体育館がなくなり、練習時間が制限されていたため、ゴールデンウイークにシンガポールへ初めて海外遠征を行ったときのことだ。齋藤監督は「彼女は、相手が誰だとか余計なことを考えて、力が発揮できないタイプ。でも、海外で何も考えず、勝ち負けのプレッシャーもない状況でプレーしたら、こんなすごい力を持っていたのかと驚きました」と将来の五輪メダリストが垣間見せたポテンシャルの高さに面食らったことを今でも覚えている。指導陣は、東野の潜在能力に初めて気づき、高いレベルに引き上げていった。

 学生時代の国際大会への出場をきっかけに、2人は国内ではマイナーな混合ダブルスに取り組み、高校卒業後は、東野が入社した日本ユニシスに、渡辺も入ってペアを継続。日本に初めてのメダルをもたらした。東野は「本当に勇大君と組んで良かったなと思いますし、勇大君が自分のパートナーで居続けてくれて本当に良かったです」と長い時間をともにし、希少な種目で世界を目指す挑戦を共有しているパートナーに感謝した。渡辺も、一緒に成長してきた先輩との歩みを振り返った。

「福島での生活がなければ、先輩とも組めていない。この年齢(24歳)でペアを組んで10年目は多分、世界を見ても少ない。先輩だから僕をコントロールできたと思うし、一緒にやって来れた。福島で培われたものが、成果として結びついてくれた。福島での6年間は、僕の競技人生において、これからもすごく大事な1ページになってくれると思う」

 日本勢初の混合ダブルス銅メダルは、東日本大震災を経験した福島で育てられた2人の努力の結晶だ。
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著者プロフィール

1979年生まれ。東京都出身。専修大学卒業後、スポーツ総合サイト「スポーツナビ」の編集記者を経て2008年からフリーライターとなる。主に育成年代のサッカーを取材。2009年からJリーグの大宮アルディージャでオフィシャルライターを務めている。

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