連載:キズナ〜選手と大切な人との物語〜

クライミング東京五輪代表の野口啓代、両親の大きな包容力に支えられた競技人生

津金壱郎

友人に会うのが楽しかったクライミング

昨夏の世界選手権コンバインドの表彰式は笑顔で歓声に応えた野口だったが、古くからのクライミング仲間たちの祝福の言葉に涙が溢れ出す 【写真:MIKI SANO】

 トップアスリートになる選手の物語をたどると、必然と錯覚してしまうような偶然が散りばめられていることが少なくない。野口の場合にもあてはまる。

 野口がクライミングを初めて体験したのは、小学5年生だった2000年初夏。家族で行ったグアム旅行でのこと。帰国してからもクライミングの楽しさを思い出しては家族で語り合ったものの、当時クライミングジムは、全国に50軒ほどと物珍しい存在。野口の住む近くにはなかったために2度目のクライミング機会はなかなか訪れなかった。

 夏休みの終わり、健司さんは茨城から東京のクライミングジムまで子どもたちを連れて出かける。このとき、運命の歯車がガタッと動いた。

 ジムのスタッフから、野口の自宅から車で30分ほどの場所に秋口から新たなクライミングジムが開業すると教えられる。ほどなくして、野口は定期的にクライミングジムに通い始めることになった。

 クライミングを始めて半年後の2001年3月には、「第5回 U-22 全日本ユースチャンピオンシップ」で高校生などを抑えて優勝する。結果をみれば『天才少女の登場』である。しかし、健司さんは「非凡ではなかったね」と、にべもない。

「優勝と言っても出場は8名だし、いまと比べたら選手層は薄いし、レベルも高くはなかった。それに当時、誰からも『才能がある』と言われたのは、啓代の1歳下の妹のほう。啓代はクライミングは好きだけど、それほど熱心ではなかったんだよね」

 中学生になると野口は、当時あった各地のクライミングジムを転戦して行うリードの「ジャパンツアー」、ボルダリングの「B-SESSION」に参戦する。幅広い年代の出場選手のなかで表彰台に立つこともあったが、表彰台はおろか、決勝進出を逃すことも珍しくはなかった。その時期を野口は「友だちに会うのが目的でしたね」と懐かしむ。

「コンペに向けてトレーニングなんてしたことなくて。父が各地の大会にエントリーしてくれて、行動範囲がだんだん広がっていくのが楽しくてクライミングが続きました」

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著者プロフィール

東京都出身。雑誌やMOOK、書籍などを担当した出版社勤めを経て、フリーランスのライター・編集者として活動。サッカーや野球、陸上などのスポーツをテーマにしたMOOKや書籍を数多く手掛ける。また、さまざまな識者の連載で企画構成をつとめる。近年はスポーツクライミングの記事を数多くの媒体に記事を寄稿している。

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