大迫傑、独占インタビュー 限界への気付きが拓いた未来
常に見据えてきた“世界”
自分の道は、自分で拓く――。大迫のキャリアはこう表現するのがふさわしい 【水上俊介】
悔しい気持ちはありましたけど、僕は目標に向かって努力を積み重ねてきただけです。シンプルにトラックで世界と戦うことを目指して、頑張らなきゃいけないという思いでした。
──ナイキ・オレゴン・プロジェクトのトレーニングにうまく適応できなかった部分もあるのでしょうか?
僕のなかでは“移行期”というか、“過渡期”という捉え方をしていました。1〜2年で差はでなくても、10年たったときには大きな差になると信じていました。
──大迫選手は社会人2年目まで日本選手権で勝つことができませんでした(2012〜14年が1万メートルで2位、15年が5000メートルで2位)が、3年目(16年)に長距離二冠を達成して、翌年は1万メートルを連覇。その後のマラソンでの躍進につなげています。リオ五輪にはトラック(5000メートル、1万メートル)で出場しましたが、東京五輪はマラソンで勝負したいと考えていたんですか?
もともとマラソンをやりたいと思っていたんです。ただ、それを公言してしまうと、そのためのトラックだと思われてしまう。これは本意ではないし、トラックで世界と戦いたいという気持ちもあったので、あまり言葉にはしてきませんでした。でも、東京五輪はマラソンで狙いたいという気持ちはありましたね。
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2016年のリオ五輪にはトラックで出場。世界のトップクラスと戦う中で、「マラソンの方が勝負できる余地がある」という思いを強めていった 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】
日本記録を出したときや、日本選手権に勝ったときはすごくうれしかったですが、いろんな選手と対峙(たいじ)していく中で、自分の限界を感じたことも事実です。5000メートルで13分を切ることは可能かもしれないけど、世界のトップクラスと戦うことを考えたときに、僕の可能性は少ないと感じました。
──それはモハメド・ファラー(英国)やゲーレン・ラップ(米国)ら、ナイキ・オレゴン・プロジェクトに所属していた選手と比べて感じたことでしょうか?
日本にいると自分の可能性はいくらでもあると思い込みがちなんですけど、世界を見たときに自分はこれくらいなんだと気付かされました。ただ、マラソンは雌雄を決する要素がフィジカルだけでなくメンタルも大きいので、勝負できる余地があるのではないかと思いました。
──初マラソンとなった17年4月のボストンで3位(2時間10分28秒)になりました。ここでマラソンの方が勝負できると感じたんですか?
そうですね。「もしかしたら戦えるかもしれない」という思いは、トラックよりも強くなりました。
──その後はマラソンで結果を残し、日本記録を2度も塗り替えました。今後はマラソンを中心にやっていくつもりですか?
トラックレースをトレーニングとして使うことはあるかもしれないですけど、あくまで僕のフィールドであるマラソンで戦い抜くことが大事だと思っています。
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