連載:未来に輝け! ニッポンのアスリートたち
パラ陸上界のホープ・石田駆の野望 東京で金メダル獲得後、インカレ出場狙う
パラ陸上を始め、わずか10カ月で快挙達成
競技を始めてわずか10カ月で、400メートルの世界選手権5位に食い込んだ石田。東京パラリンピックでその雄姿を見られる可能性は高い 【Getty Images】
2019年11月、石田はアラブ首長国連邦・ドバイで開催されたパラ陸上の世界選手権で5位に食い込んだ。専門は400メートル。パラ陸上の立位クラスにおいても、スプリント種目で日本が決勝に残ることはほとんどない。石田のようなアスリートの登場を待ち望んでいた関係者は「感慨深いねぇ」と目を細めていた。
パラ陸上界にすい星のごとく現れた20歳は、同大会4位以内に与えられる東京パラリンピック代表内定こそ逃したが、2020年4月1日時点で東京パラリンピックランキング6位以内に与えられる内定切符を得て、同大会の金メダルを取りにいくつもりだ。
石田は岐阜県各務原市生まれ。父が陸上をやっていたことから「駆(かける)」と名付けられた男の子は、その名の通り、かけっこが得意だった。
「走るのがそれなりに好きで、運動会ではリレーの選手でしたね。中学に入って何か部活に入ろうと思ったとき、まあ親も面倒見てくれるかもしれないし、いいかなって」
中学で競技を始めたが、始めから陸上で最もつらいと言われる400メートルに積極的だったわけではない。花形の100メートルは同じ学校に自分より速い選手がいたし、走り幅跳びは挑戦したものの、2年になると記録が伸び悩んだ。一方、たまたま学校で出場する選手がいなくてチャレンジした400メートルは、当初から市大会で優勝するなど好成績を収めていた。
「400メートルはやっぱりキツいし、メンタル的にも結構やられちゃうところがある。だから、本当はもっと短い100メートルや200メートルの選手になりたいと思っていました(笑)。でも400メートルでは最初から結果もそれなりに出ていたので、向いているんだなと思って続けることにしたんです。今でも『なんでやってきたんだ』と思うくらいしんどいけれど、その分、記録を出したときの達成感は格別ですね」
障がいを負った際、「奇跡」と思えたこと
インタビューに答える石田。大学入学直後に骨肉腫が発覚した際は「絶望した」と振り返るが、身体機能の残存状態が良かったことが今の活躍ぶりにつながっている 【瀬長あすか】
自己ベストである48秒68を記録したのは高3の東海総体。準決勝のレースだった。
「決勝に向けて体力は温存しようと思ったんですけど、決勝進出にはいい順位で通過しなくてはならなかったし、同じ組に強い選手もいました。だからスタートから全力で行ってみようって。そしたら自己ベストが出たんです。決勝では終盤、足がつる感じもあって結果は5位だったんですが、目標としていたインターハイ出場を決められて本当に良かったです」
次なる目標を設定したのは、愛知学院大に推薦の話をもらったときだ。
「中学、高校と全国大会に出場したんだから、大学でもインカレを目指そう、と。夢のまた夢にオリンピックを見ていた時期もあったけど、自分が陸上で食っていけるわけないし、いい流れで陸上を終えられたら満足かなと思っていました」
だが、試練は突然やってくる。入学直後の5月。左腕の違和感に気づいたのは練習をしていたときのことだ。見てみると上腕が異常に腫れていた。町の整形外科に行ったが、原因がわからず大学病院へ。骨のがんである骨肉腫と診断された。
「医者からは命が大事なら安静にしろと言われるし、もう陸上はできないのだろうと絶望しました」
6月に左肩の筋肉を除去し人工関節に置き換える手術を受けた。幸い腫瘍は再発のケースが少ない珍しいタイプで腕の切断は回避できた。さらに、陸上競技を続けた石田にとって「奇跡」と思えたひとつは、覚悟していたよりも身体機能の残存状態が良かったことだ。のちに父のすすめでパラ陸上を始めようと決めたとき、その障がいは「T46」という片上肢機能障がいなどの選手のクラスに当てはまった。