益田直也、原点は「大学」 野球人生を左右する大きな選択があった
「ベンチに戻ったらまるで“ゆでダコ”」
全国デビュー、神宮の大舞台……緊張するどころか、「気持ち良かったなあ」と当時から強心臓ぶりを発揮していた 【写真:山下隼】
「冬を越えて体もできてきたためか、そのころ明らかに球が速くなったんです。同級生とも、『今日、俺は何キロ出た』とお互い言い合い、張り合っていました。特に神宮は、スピード表示が(実際より)速く出ると評判だったので、『ここで自分のMAXを出してやろう』と思いました。だからもう、1球1球スピード表示を見ては投げ、見ては投げ、という繰り返し。だから、投げていてとても気持ちが良かったです。なんせスピードが出ましたからね(笑)」
実際、このとき益田のコントロールは、荒れていた。いわゆる「ストライクゾーンの中で暴れている」状態で、バッターにしてみればさぞ的が絞りにくかっただろう。
鈴木監督は益田の名前がコールされた瞬間を、今も楽しそうに振り返る。
「法政のベンチを見ていたら、みんなベンチ裏のロッカーに入っていくんですよ。要するに、まさかのピッチャーの登板に、データを取りに走ったんですね。こっちのベンチで言っていましたよ。『リーグ戦でもロクに放っていないのに、データなんかあるわけない』って(笑)。向こうのバッターは速球に差し込まれて詰まって、全く打てないんです。あれは痛快でしたねえ」
もう一つ、鈴木監督が鮮明に覚えているのは、イニングが終わるごと、ベンチに帰ってきた益田がまるで「ゆでダコのように」(鈴木監督)紅潮していたことだ。
「まあ、投げっぷりは素晴らしかったですね。でもそんなふうに真っ赤っかな顔をしているものだから、帰ってくるたびに『まだいけるか? 大丈夫か?』と繰り返し、聞きました。すると『まだいけます、まだいけます』って答える。彼の中では1球1球全力で、力が尽きるまで投げ切ったんじゃないですかね」
鈴木英之監督からの評価も徐々に高まり、順調に成長を遂げる益田だったが…… 【写真:山下隼】
「その上、アイツは“投げること”に飢えていた。ずっと試合で使ってもらったことのない子でしたから。私は、あのときの益田は緊張よりも『神宮の大舞台で、六大学の法政相手に俺が投げているんだ』という喜びが勝っていたんじゃないかと思うんです。緊張するヒマさえなく、むしろワクワクしながら投げているように見えました」
3イニング投げたのは、大学に入って初めてだった。2イニング目が終わり、鈴木監督から「お前、まだいけるか?」と聞かれて、正直に「キツイです」と答えた。「でも」――と益田は続けた。「あと1イニング、頑張ります」。
「リーグ戦はほとんどブルペンにいたので、投げたいという気持ちはもちろんありました。同じメンバーに入っている同級生たちが、どんどん試合で投げていましたからね。やっと自分の出番が来た。よし、スピードを出そうって思いました(笑)」(益田)
7回裏、1死を取ったところで降板。3回2/3を被安打4、奪三振2、自責点1がこの日の益田の成績である。結果、関西国際大は2対5で試合には負けたものの、MAX147キロを計時する変則右腕の投げっぷりは、大きな収穫だった。
「ボールも決して弱くないし、コントロールも悪くない。そして、あとで分かるんですが、思ったより度胸もある。頼もしかったですね。『ああ、スゴイのが出てきたな』と思い、嬉しかった」(鈴木監督)
ところが3年春、思わぬ事態が益田を襲う。
<後編に続く>
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益田直也(ますだ・なおや)
【写真:山下隼】