
- スポーツナビ
- 2019年11月2日(土) 11:00

今年5月に日米通算21年の現役生活にピリオドを打った上原浩治さん。東海大仰星高時代は控え投手も、1浪の末に進学した大阪体育大で頭角を現し、1998年のドラフトでプロ入り。「雑草魂」を胸にルーキーイヤーから沢村賞を受賞する活躍を見せ、長きに渡って巨人のエース、さらに守護神に君臨。2009年からはメジャーを舞台に移し、レッドソックス時代の13年にはワールドシリーズの胴上げ投手になった。2018年には日本人史上初となる日米通算100勝100セーブ100ホールドも達成したレジェンド右腕だが、彼がプロのスカウト陣から一躍注目を集め、一気に評価を高めることになったのは、日の丸のユニフォームを着て臨んだ代表戦であり、プロ入り後も上原さんの野球人生を輝かしく、彩った。
タダで海外に行ける喜びが大きかった
――日本代表について伺っていこうと思います。上原さん、最初は大阪体育大学3年の時ですか?ジャパンのユニホームを着たのは?
1年の時に学生ジャパンでは着ていましたけど。1年生の時からいろいろと着させてもらっていますね。
――浪人されて、そこから体を戻していくところから初めて、日の丸をつけてプレーするというのは、どういう思いでしたか?
思いというか、何も想像していなかったですから……。だって浪人中は野球をしていなかった訳ですから。1年間野球をしてない中で、次の年の秋にはそうやって海外に行かせていただいてと……。自分の中では想像していなかったですね。
――大学時代は国際試合負けなしのキューバと対戦したり、チャレンジングなことにいろいろ臨める舞台だったのかなと想像するんですけど、いかがでしたか?
たまたまキューバが10年以上負けていなかった国際大会で、自分が先発して勝ち投手になって、そこから注目を浴びたという感じだったので、はい。そこからプロを意識したというのもあります。
(あとは)日の丸というのは、自分の中ではタダで海外に行けるという(笑)、学生身分でタダで海外に行けるという、その喜びの方が僕の中では大きかったですね。
――当時のキューバはいかがでしたか?
無茶苦茶強かったですから。(オレステス・)キンデラン、(アントニオ・)パチェコ、(オマール・)リナレス、もう黄金時代ですから。怖かったですね。金属バットだったんで。今は木製ですけど、僕らの時は金属バットが国際大会だったんで、本当に大げさじゃなくて、ピッチャーライナーを避けて後ろ見たらバックスクリーンに入ってたという感じだったんで……。そういう経験もありますから、本当に怖かったということですね。
勝って当たり前の雰囲気だったアテネ

――2004年のアテネ五輪はエースとして活躍されましたけど、日の丸をプロとして背負うということのプレッシャーみたいなものは五輪の場だと感じたりされるんですか?
あの時はプロだけで行くと決まった年だったので、プレッシャーはもちろんありましたね。とにかく優勝する、金メダルを獲るということが最低条件みたいに言われてたんで……。勝って当たり前という雰囲気でやらされていたんで……。
だから、やっぱりちゃんと結果を出して、プロとして来てるからだとアピールしたかったんですけど……。金メダルを獲れなかったという結果になってしまって、残念でした。
――あの時のチームは日本プロ野球界のオールスターですよね?そういう場ではどういうコミュニケーションを取るのかなと思って不思議な感じがしていましたけど?
一番まとまったというのは、長嶋(茂雄)さんが……(アテネに)行く直前に倒れられて……。ユニホームをずっとベンチの中にも置いていましたし、帰って来てからもホテルの方に長嶋さんが来ていただきました。
――短期間で戦う難しさは感じましたか?
どんな相手でもやっぱり短期決戦というのは難しいですよ。何をしてくるか分からないですし、どういうバッターかもわからない。情報も、いろんな試合のビデオを持ってきたりしますけど、やっぱり対戦してみないことにはわかんないですからね。
(インタビュアー:生島淳)
上原氏のインタビュー第1回Vol.2、Vol.3はスポーツナビアプリ限定でご覧いただけます。
「上原浩治が振り返る侍ジャパン」Vol.2では世界一に輝いた第1回WBCの思い出について語ってもらいました。