橋本大輔を支える「シアトルでの経験」 Jリーグ新時代 令和の社長像 栃木SC編

宇都宮徹壱

「100%関わる」ことを決断させたJ3降格

15年シーズンでJ3降格を経験した栃木SC。新社長に就任した橋本大輔の下、クラブは2年でJ2に復帰した 【宇都宮徹壱】

 栃木SCの運営担当、野崎治之は2015年のホーム最終戦のことを、昨日のことのように覚えていた。11月14日、雨の栃木県グリーンスタジアム(通称、グリスタ)で行われた、第41節の京都サンガF.C.戦。0-1で敗れて21位以下が確定した試合後、水沼富美男社長(当時)があいさつに立つと、お約束のようにスタンドから大ブーイングが沸き起こった。

「あの年は、仕事を覚えるのに必死でしたね。どんどん仕事が降ってきて、それをこなすので精いっぱいでした。連敗して監督が変わったりとか、ついに最下位に落ちたりとか、もちろん気になっていました。それでも『まさか(J3に)落ちないだろう』と思っていました。実は社内でも、それほどの危機感はなかったんですよ。(最終節も敗れて)降格が決まると、上の人たちがごっそりいなくなって、僕は広報から運営に移ることになりました」

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 当時の野崎は入社して1年目。前職が印刷の仕事だったためか、いきなり広報を任されたという。川崎フロンターレの応援席で太鼓をたたき、のちに地元のクラブである栃木SCを応援していたらスタッフにスカウトされた。そんな野崎を厳しく指導することになる、現社長の橋本大輔もまた、非常勤の取締役として雨のグリスタにいた。

「ホーム最終戦で泣いている子供を見て、『これは良くない形の降格だな』と思いました。そして僕自身、非常勤として中途半端な形でクラブと関わっていたことを反省しましたね。だったらJ3に降格する来季は、100%関わるか、100%関わらないかどちらかにしようと。もし関わるのであれば、J2に昇格するまでは自分の会社の代表者を新たに任命して、僕は常勤の取締役として水沼社長を支えようと思った。関わらないのであれば今後一切栃木SCとの縁は切ろうと。まさか自分が社長になるとは、まったく想像していませんでしたね」(橋本社長)

 新社長を迎える野崎の胸中は「大変だろうな」「でも、何とかしてくれるだろうな」というものだったという。だが、実際に「大変」になったのは野崎自身。運営の仕事が社長直下に組み込まれ、毎日のように橋本から要求の高い仕事が降ってきたからだ。

「社長は一言で言えば、厳しい人。でも『言われてみればその通り』ということが多いですね。来場者も気づかないような細かい部分でも、クレームが入る前に先回りして対処するんです。就任してすぐ、スタジアムの雰囲気を華やかにするためにバナーや看板を一新しました。社長がデザインのジャッジをして、業者にはJ1並みのクオリティーを求めました。正直、しんどかったですけれど(苦笑)、勉強にはなりました」

フィロソフィーの重要性を気付かされたスペイン視察

クラブフィロソフィー『KEEP MOVING FORWARD』を掲げる橋本社長。2年前のスペイン視察では大きな刺激を受けた 【宇都宮徹壱】

 橋本は宇都宮市出身の43歳。父親が代表だった、地元タウン誌を発行する『新朝プレス』に2004年に入社し、亡き父の意思を継いで28歳で社長となった。それまでのキャリアで目を引くのが、1995年から2002年までシアトルで過ごした米国留学時代。ザ・アート・インスティチュート・オブ・シアトルで、音楽のエンジニアを目指していた若き日の経験が、その後の人生に大きな影響を与えることになった。

「まず、いろいろな人種の友だちができて、いろいろな文化や考え方があることを知りました。宇都宮で起こっていることは、ごくごく世界の一部でしかないんだなと。それからスポーツ。シアトルといえば、まずマリナーズですよ。イチローはもちろん、佐々木(主浩)も長谷川(滋利)もスタジアムで見ました。アメフトならシーホークス、バスケならスーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)。地元にプロスポーツがあって当たり前という環境でしたから、こっちに戻ってきたら何もなくてつまらなかった(苦笑)」

 栃木SCとの縁は、JFL時代の06年。地元財界から声をかけられて、法人化の発起人に名を連ね、Jリーグ準加盟が認められた07年に非常勤の取締役となった。サッカーもJリーグもよく知らなかったが、まずは「週末に応援できるチームができれば」との思いが強かったという。そんな橋本の経歴を振り返れば、彼がJクラブの社長に就任することが、どれだけ突飛(とっぴ)な決断であったか理解できよう。

 しかも16年シーズンはJ3から出直すこととなり、リーダー格の社員も次々と去っていった。まさに究極の「火中の栗」。ところが、この降格の経験がプラスに働いた面もあったと橋本は語る。栃木は今季から毎シーズンつくるスローガンを廃止し、クラブフィロソフィー「Keep Moving Forward(前に進み続ける)」を掲げた。きっかけとなったのが、J3クラブの社長を対象に17年に実施された、Jリーグ主催によるスペイン視察。

「視察したクラブは、エイバルやレアル・ソシエダ、ビジャレアルといった、そんなに大きくないクラブでした。行く先々でまず聞かされたのが、クラブのフィロソフィー。クラブがいかに歴史を重ねながら、地域の人々にとってかけがえのない存在になっていったのか。あのビジャレアルだって、2部に降格した経験があるわけです。『やっぱりフィロソフィーが大事なんだな』ということで、ウチも今季からスローガンをやめることにしました。クラブのフィロソフィーさえあれば、何も問題ないからです」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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