連載:私たちが現役を諦めない理由

G大阪で「10番」を背負った二川孝広の今 人工芝のグラウンドでボールを追う日々

後藤勝

自分の“立場”を察したG時代の晩年

03年からG大阪で10番を背負って活躍したが、晩年はJ3・G大阪U-23でプレー。複雑な想いを抱いていた 【写真:アフロスポーツ】

――二川さん自身の転機となったのは、やはりG大阪がセレッソ大阪、FC東京とともにU−23でJ3に参入した2016年になるのかな、と。ガンバの場合はトップとU−23をセパレートしましたよね。そこでオーバーエイジとしてU−23に入った時には、やはり思うところが……。

 ありましたね。もうそういう、なんて言うんですかね。“立場”なんだなというのは感じたし、ここ(G大坂)にいてもどうなんだろうというのは思うようにはなりましたね。

――オーバーエイジが若手の指南役というか、いいお手本に――という期待があったのかどうか。

 そのオーバーエイジ枠にしても、トップの試合に出ていない選手が来たりする。ぼくは練習もそっち(U−23)でやっていたので、それはちょっと違いましたね(苦笑)。

――試合数がJ3で重なっていくが、それによってトップに行けるか、というとそうでもない。

 そうですね。いても試合に出られるとは限らないし、トップから降りてくる選手が(オーバーエイジで)出ることもあったし、そういう難しさはありましたね。モチベーション的に。

――ただJ3のクラブというだけであれば移籍先として視野に入るでしょうけれど、同じチーム内でU−23に分けられ、昇格にも降格にも関係しないとなると、士気の持っていき方が難しいかもしれないですね。

 特にU−23は「優勝を目指す」とか「上を目指す」とか、とにかくチームとして何かを目指すっていう場ではなかったので、勝負どうこうじゃないチームでプレーするということで難しい部分はありました。育成がメインになってくると、ぼくは違うんじゃないかなと。

<後編に続く>

(企画構成:株式会社スリーライト)

二川孝広(ふたがわ・たかひろ)

【撮影:熊谷仁男】

1980年6月27日生まれ。大阪府出身。ガンバ大阪ユースから1999年にトップチームへ昇格。天才肌のパサーとして2000年から出場機会を増やし、2003年からは背番号10を背負った。西野朗監督が率いた2005年には、ガンバ大阪のJ1リーグ初優勝に貢献。2006年には日本代表に初招集、2008年にはAFCチャンピオンズリーグ制覇も経験した。2016年6月より東京ヴェルディへ期限付き移籍。2018年は東京ヴェルディから栃木SCに期限付き移籍し、J2リーグ戦7試合に出場。Jリーグ通算ではJ1リーグ394試合出場43得点、J2リーグ65試合出場5得点、J3リーグ10試合出場1得点を記録。今シーズン、FCティアモ枚方に移籍した。

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著者プロフィール

サッカーを中心に取材執筆を継続するフリーライター。FC東京を対象とするWebマガジン「青赤20倍!トーキョーたっぷり蹴球マガジン」 (http://www.targma.jp/wasshoi/)を随時更新。「サッカー入門ちゃんねる」(https://m.youtube.com/channel/UCU_vvltc9pqyllPDXtITL6w)を開設 。著書に小説『エンダーズ・デッドリードライヴ 東京蹴球旅団2029』(カンゼン刊 http://www.kanzen.jp/book/b181705.html)がある。【Twitter】@TokyoWasshoi

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