「人生で一番悩んだ」ソフトB武田の1年 配置転換でフォームと考え方を確立
配置転換がもたらした幸運
それは、中継ぎへの配置転換。ポストシーズンでの戦いを見据えての“第2先発制”のテストでもあったのだが、これが武田にとって幸運だった。
「悔しさは確かにありましたよ。でも、別に嫌ではなかったですね。逆に楽しみなところもありました。1週間に1回じゃなく、毎日投げられるので。試す場がありましたし、毎日投げられるから体が忘れない」
さすがに10日間でフォームが固まるわけはない。時間をかけて、自身のフォームを徐々に確立させている、ちょうどそのタイミングでの配置転換だった。100球以上投げて、その後は次に備えて数日間投げられない先発ではなく、毎日のようにブルペンで肩を作り、週に何試合もマウンドに上がるリリーフとなったことで、投げながらフォームを確立していくことができた。「中継ぎをやったのは大きかったですね」と、本人も振り返った。
マウンド上での“頭”の使い方も学んだ。「ピッチャーの考え方、バッターの抑え方、どういう状況に持っていくと打者はバットを振るのか、こう打ち取れるのか、というのを知ることができました」。
具体的なことは、相手を抑えるための戦略であるため、深くは明かせないというが、イメージとしては「足場を落としていく感じです。例え話で言えば、足場の悪い16マスにバッターが立っているとして、右上からマスを落としていくと人間はどこにいくのか。左隅に寄っていきますよね。そこに追い込んでいくために、どう足場を崩していくか。追い込んだら勝ちなんです。そこに立たせる、立たないといけない状況を作るんです」。
そして「ローボールハイマネー、ハイボールローマネーです。球が低い投手は年俸が高くなる、球が高い投手は年俸が低くなる」と、低めにボールを集める重要性を痛感した。
フォームと考え方の確立。これが結果として現れたのが、レギュラーシーズンの最終盤であり、日本一に輝いたポストシーズンだった。
西武とのクライマックスシリーズ(CS)ファイナルステージでは初戦で7回の1イニングを3人斬り。第4戦では4回で降板した東浜巨の後を受け、2イニングを無失点に封じた。広島との日本シリーズでは、チーム最多タイとなる5試合に登板。7回1/3を投げて、第5戦に會澤翼に浴びたソロ本塁打の1失点だけ。工藤監督が思い描いたとおり“第2先発”としての役割を果たし、レギュラーシーズン2位から“下剋上”を果たす原動力となった。
危機を乗り越えた、中学時代の原体験
3人兄弟、姉2人の末っ子として、大分県別府市で生まれた。子どものころに熱中していたのはバレーボール。小学校4年のときに「友達に人数が足りないからと誘われた」という理由で初めてソフトボールに触れ、本格的に野球の道に進んだのは宮崎市立住吉中入学時だった。父親からの「バレーと野球、どっちが将来メシを食えるんか?」という一言で野球部に入部したのだ。
この住吉中で武田の礎が出来上がる。入部した際はソフトボール経験があるとはいえ、野球は素人。投手になったのも「守備ができなかったんです。ボール捕れない。外野やります、バンザイします。ファーストやります、捕れません。内野やります、捕れません。キャッチャーは、なおさら無理。じゃあ、どこ? となって、ピッチャーだった。投げるしかできなくて」。消去法だった。
同級生には小学生のころに県選抜に選ばれていたような好左腕がいたという。ただ、そこで元来の負けず嫌いな性格が出た。「『こいつに勝てるのかな』と思いました。でも、とりあえず頑張ろうと。そいつが見ていないところで、絶対練習してやろうと決めました」
中学では朝練が禁止されていた。だが、武田少年は毎朝7時には登校し、校庭を走り、練習した。顧問の教師に注意されても、折れることなく毎日これを続けた。1年がたったころには、その努力する姿勢を認めた顧問の教師が学校側に掛け合い、朝練の許可が下りた。とはいえ、朝練をするのは武田1人。そこから2年間、その“恩師”の朝のマンツーマン指導もあり、めきめきと力をつけた。
「1年のときはMAX95キロ。2年で先生に教えてもらうようになって、体ができてきて120キロを超えました。当時はインナーマッスルのトレーニングとかが流行って、それもやっていたからか、3年では140キロ超え。県の代表にもなりました。中学校で『やれば結果が出る』というのを実体験として学んだんです」
人に見えないところで努力する。武田を知る人物ならば、“武田らしい”とうなずくエピソードだろう。そして、継続する重要性と努力は裏切らないということを実体験として学んだのだった。
このころには出来上がっていたという“ちょっと変わった”キャラクター。だが、若き日に身につけた探究心、向上心、そして、たゆまぬ努力は裏切らないということを実体験で知っていたからこそ、今季、直面した“危機”を乗り越えることができた。「たぶん1年目の僕だったら、気付けてないでしょうね」。ここまでに積み重ねてきたさまざまな勉強で頭に染み込ませた知識や経験があったからこそ、だった。
苦難を乗り越え、確かな収穫を手にした18年も残りあとわずか。オフシーズンに入っても、確立したフォームをより一層洗練させるべく、トレーニングに汗を流している。「来季? やっぱり先発がやりたいですね」と口にする姿には、確立した“自分”への自信がにじんでいた。
(文=福谷佑介(スポーツライター)、写真=湯浅芳昭、BBM)