「何で俺を選ばへんのや」と嘆いたあの日 南野、3年越しの代表初ゴールで反撃開始

元川悦子

「俺だってできる」。悔しさしか残らなかったハリル時代

3年前にA代表初キャップ。だが、その後は苦しむことに…… 【Getty Images】

 南野の非凡な才能は、C大阪のアカデミーに在籍した10代の頃から広く知れ渡っていた。森保ジャパンの初陣にそろって出場した中島、室屋成らとともにメキシコで8強入りした11年のU−17W杯では背番号10をつけ、12年には17歳でJリーグデビュー。13年にはJ1・29試合出場5得点という数字を残し、Jリーグベストヤングプレーヤー賞も受賞している。

 この活躍に目を付けたアルベルト・ザッケローニ監督は14年W杯ブラジル大会の日本代表招集も真剣に考えた。結果的には予備登録にとどまったが、19歳で大舞台の一歩手前まで行ったことで、ロシアでの活躍は約束されたかに見えた。

 翌15年1月にはオーストリアの名門、レッドブル・ザルツブルクへ移籍。海外キャリアもスタートさせる。サッカーに対して誰よりも貪欲な男は週3回ドイツ語のレッスンを受け、周りとのコミュニケーションを図り、地位を勝ち得ていく。15−16、16−17の2シーズンはオーストリア1部で連続2桁ゴール達成という明確な数字も残しており、本人も着実に前進している手応えをつかんでいたはずだ。

 当時、日本代表の指揮を執っていたヴァイッド・ハリルホジッチ監督も成長著しい若武者に注目。15年には前述のイラン戦と、11月のW杯ロシア大会2次予選・カンボジア戦(プノンペン)の2試合で出番を与えた。が、その出場時間は合計6分。「悔しさしか残らない」と本人もストレートに本音を吐露したことがあったが、それはA代表から遠ざかる序章にすぎなかった。

 16年に入り、リオデジャネイロ五輪後には大島僚太、久保裕也、浅野拓磨らが続々とA代表に昇格していったが、南野は塩漬けにされたままだった。ロシアW杯最終予選の前半戦が終わった同年12月、彼は煮え切らない思いを口にしたことがあった。

「何で俺を選ばへんのや。俺だって(代表に)行ったらできるで」

「裕也君が呼ばれているのはチームで点を取っているから。やっぱりそこをハリル監督は一番評価していると思う。あとは試合に出続けているかどうか。それを意識していくしかない」と南野は悔しさを押し殺しつつ、自らに言い聞かせるように話した。幼なじみである室屋も、C大阪時代の親友・秋山大地も「拓実は根っからの負けず嫌い」と口をそろえるだけに、自分だけが取り残された状況には我慢がならなかったはずだ。

 ただ、この16−17シーズンはリオ五輪出場によりチームを離れたことで出遅れ、それがシーズン全体に響いた。翌17−18シーズンも開幕直後のひざの負傷で前半戦をほぼ棒に振る形になり、ロシア行きへのアピールはかなわなかった。結局、彼を冷遇したハリル監督は今年4月に解任されたが、代表の指揮を引き継いだ西野朗監督も南野を呼び戻すことはしなかった。こうして19歳でW杯ブラジル大会の予備登録メンバー入りした若き才能は、ロシア行きを逃す羽目になり、再び日の丸を背負うまで3年近い月日を要することになったのである。

「大激戦区」の2列目で生き残り、W杯へ

“3度目の正直”で4年後のW杯カタール大会出場を目指す 【写真:西村尚己/アフロスポーツ】

「代表に対する思いはもちろんずっと自分の中にありました。ロシアW杯もテレビで見ましたけれど、一番印象に残っているのはベルギー戦。本当にあと一歩のところでベスト8に行けなかったところがすごく悔しいというか……。ここに自分が立ちたいという気持ちも強くなった。だからこそ今回、何かしら活躍することで、次のW杯につながると思う。今はそれに向けて全力を尽くしたい」と、今回の代表合宿合流初日となった4日、南野は札幌で偽らざる世界舞台への思いをあらためて語った。

 その闘志と意欲はコスタリカ戦で随所に見て取れた。ハリル時代の3年前はA代表に来ても、どこか居心地の悪さを垣間見せていたが、海外キャリアも長くなり、同じリオ五輪世代の仲間が多かったせいもあって、今回の南野は堂々たる風格をパナソニックスタジアム吹田のピッチで示していた。

 特に変化を感じさせたのは、前線で屈強なDFに囲まれても体を張って確実にボールを収められていた点だ。前述の前半39分の最初の決定機は、遠藤がパスを出す直前には南野が2人のDFにマークされながらタメを作り、リターンパスを出して背後に抜け出す形だった。このワンシーンを見ても、どれだけ冷静に外国人選手相手に対応できるのかがよく分かるはずだ。

「ザルツブルクではFWからサイド、トップ下まで、さまざまなポジションをやってきた。攻撃的な役割なら何でもこなせる」と本人も自信をのぞかせたように、その万能性と適応力は大きな強みに他ならない。可変性システムと戦術を追求していくだろう森保監督にとっても、こういう使い勝手のいいピースは貴重な存在になるだろう。

 代表3試合目で初ゴールという最初の関門を突破した南野の次なるハードルは、ロシア組との競争だ。指揮官が今後どのようなシステムで戦うのか分からないが、コスタリカ戦と同じ4−4−2のセカンドトップの位置であれば、C大阪の先輩・香川真司が最大のライバルになる。3−4−2−1のシャドーに入るという前提なら、香川のみならず、原口元気や乾貴士、コスタリカ戦で同じく気を吐いた中島や堂安までもが競争相手になってくる。大激戦のポジションに身を置く以上、国際Aマッチで1点を取ったからと言って、何1つ保証されるものはない。その厳しさを誰よりも理解しているのが南野自身なのだ。

「1ゴールしただけでW杯メンバーを脅かせるわけじゃないし、まずはチームに帰ってもう1回アピールして、10月も選ばれるようにしっかりやりたい。ザルツブルクで試合に出て結果を残していれば、代表のスタッフは見てくれると思う。そこにこだわっていきたいです」と彼も気を引き締める。

 3歳で初めて見た98年W杯フランス大会で、ブラジル代表のロナウドやイングランド代表のマイケル・オーウェンに憧れた男の見据える場所は、まだまだ遠いところにある。3度目の挑戦で22年W杯カタール大会を確実に引き寄せるためにも、自らのレベルアップは欠かせない。森島と同じ8番をつけてゴールを奪い、日本の8強の壁を超えるけん引役になる日まで、南野拓実の飽くなきチャレンジは続く。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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