秘めたる才能を開花させた恩師の指摘 金メダルの記憶 柔道・野村忠宏(1)

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 祖父の彦忠は地元の奈良で「豊徳館野村道場」を開き、父は元天理高校の柔道部監督、叔父の豊和は1972年のミュンヘン五輪金メダリストで、兄の忠寿は豊徳館野村道場のコーチ。そんな環境で育った野村が、柔道にのめり込んでいくのは必然だった。3歳のころから、道場に習いに来ていた人たちと遊びながら畳に親しんだ。しかし、だからと言って幼少期から抜群に強かったわけではない。中学時代は体重が30キロ台だったこともあり、女子にも負けていた。高校に入学する際は、柔道部監督である父に「無理して柔道しなくていいぞ」と言われるほどであり、高校3年生で初めて出場した全国大会でも1回戦負けという成績しか残せなかった。五輪に憧れは持っていたが、目指すことさえおこがましいと思っていた。

細川(右)の指導により、野村の才能は開花した 【株式会社Nextend】

 転機が訪れたのは93年に天理大学へ進学してからだ。天理大は柔道の名門で、これまでも数多くの優秀な選手を輩出していた。84年のロサンゼルス五輪で金メダルを獲得した細川伸二もその一人で、母校の指導にあたっていた。野村が2年生の時、大学の道場で練習をしていたら、突然細川からこんな指摘を受けた。
「お前は一生懸命頑張っているけれど、その練習では強くなれないよ。お前は常に残りの時間とか残りの本数を気にしながらやっているな」
 当時の天理大では、乱取りという実戦形式の練習を1日で6分12本行っていた。試合時間は当時5分だったから、実際よりも1分長い。これを12本というのはかなりハードなメニューだ。野村は練習を乗り切るために、意識的にペース配分をしている。細川にはそう映っていた。
「お前は与えられた6分12本というメニューを計算して、ペースを考えながらこなす練習を頑張っているだけだ。試合に勝つというのはそういうことじゃない。限られた5分という時間の中で、自分が磨いてきた技や体力、精神力をすべて出し切る。そしてぎりぎりの競り合いの中で勝ち切る。そういう選手が強いんだ。ペース配分をしながら、こなす練習をしていたら限界があるぞ」

 細川は野村の才能を認めていた。結果を出せていなかった高校時代の後半に試合を見たことがあり、その素質を見抜いていたのだ。しかし、その選手がいまだ殻を突き破れずにいる。それが歯がゆかった。
「お前が本当に強くなりたい、自分自身を変えたいと思うなら意識や取り組みを変えろ。今日から練習の途中でも『限界だ、もうこれ以上はできない』と追い込んだ練習をできるのであれば、途中で休んでもいい。だから6分12本をやろうとするな。その代わり、目の前の6分ですべてを出し切る。常に苦しかった試合、悔しかった試合をイメージしながら緊張感を持ってやる。それを積み重ねていくんだ」

 この指摘は野村の胸に突き刺さった。確かに練習時間を気にして、あと何本やらなければいけないのか、あと何分あるのかと常に考えていた。大学に入ってからの目標は学生チャンピオン。それを達成するために練習をしているのに、どこかで毎日きちんと練習している自分に満足していた。自分なりに頑張ってはいたつもりだったが、結果が出ないのは事実だった。変わりたいのに変われていない自分がいる。細川の言葉は野村の心に深く染み入った。

 この日を境に野村は意識を変えていく。後のことを考えず、1つ1つの乱取りに全力で取り組んだ。意識が変われば、練習の質もおのずと変わってくる。甘えをなくす意味で、細川の目の前で乱取りを行った。ただ「限界までやったら途中で休んでいい」という言葉はうそだった。あるとき、野村がへとへとになって細川に訴えた。
「先生、もう動けません」
 すると細川からはこんな言葉が返ってきた。
「なんや、お前はそんなもんか」
「……」
 マジかよ。そう思うと同時に、その言葉にカチンときた。ただ、ここで休んでしまったら今までの自分と変わらない。だからふらふらになりながらも、わずかに残っている力を振り絞って練習を続けた。来る日も来る日もそれを繰り返した。

 すると、大学2年の94年6月、野村は目標としていた全日本学生体重別選手権で優勝を果たすまでに成長を遂げたのだった。

<第2回に続く>

(取材・文:大橋護良/スポーツナビ)

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