秘めたる才能を開花させた恩師の指摘 金メダルの記憶 柔道・野村忠宏(1)
アトランタ五輪から3大会連続で柔道男子60kg級を制した野村忠宏 【赤坂直人/スポーツナビ】
「膝を酷使してきたアスリートをいっぱい見てきたけれど、野村さんはその最終形です」
野村自身も悩んでいた。痛みにより、充実した練習は積めていない。そんな状態で果たして本当に試合に出るべきなのか。たとえ畳の上に立てたとしても、負傷箇所をさらに悪化させ、周りが悲しむ結果を生むのではないか。最後の真剣勝負となる全日本実業柔道個人選手権大会を前に、野村は葛藤した。
だが試合が近づくにつれて、ここで辞退したら自分らしくないと感じるようになった。これまでのキャリアを振り返ると、どんなに弱い姿をさらしても精いっぱい柔道と向き合ってきた。それが信条でもあったのだ。
「ぼろぼろになった最後の姿を見せるのも、ここまで自分を支えてくれた人々への恩返しになるんじゃないか」
野村は出場を決断した。
現役最後の試合は一本負け。敗れた瞬間、最初に湧き出た感情は悔しさだった 【写真:長田洋平/アフロスポーツ】
「これで俺にとっての真剣勝負の柔道は終わりなんだな」
そう思うと寂しさがこみ上げてきた。スタンドからは「お疲れ様、よく頑張った」という声援が聞こえてくる。負けて拍手をもらうのは初めての経験だった。畳を下りて、父の基次と握手をすると、いつもは勝負に厳しい父が涙を流していた。
「五輪での背負い投げも感動をもらったけれど、今日お前が見せてくれた背負い投げはそれ以上に輝いていた。ほんまによう頑張った。お疲れさん」
面と向かって涙を流す父の姿を初めて見た。ふと気付いたら野村も号泣していた。これまでの競技人生が頭を駆けめぐる。世界のトップを目指す過程で、強い自分、弱い自分、そして年齢を重ねるにつれて衰えゆく自分を見ることができた。
「本当に柔道こそが俺の人生だったんだな」
野村は心から感謝した。自らの限界まで柔道と向き合えたことを。競技を通じてさまざまな自分と出会えたことを。
「俺は幸せものだ」
栄光と挫折に満ちた野村のキャリアはこの瞬間、幕を閉じた。