イチロー、前例のない挑戦へ 異例づくしの決断とその舞台裏

丹羽政善

会長特別補佐になることが発表され、試合前の練習でチームメイトと抱き合うイチロー 【写真は共同】

 昨年9月半ば、大谷翔平がポスティングシステムを利用して、大リーグ挑戦を決めたと報じられたとき、そこに本人の言葉はなく、コラムニストのえのきどいちろう氏が、「感触として何が近いかというと『桐島、部活やめるってよ』だ」と書いていたのは、言い得て妙だった。

「桐島、部活やめるってよ」は、主人公(?)である桐島が一度も出てくることなく、「部活をやめるらしい」といううわさによって周辺の人たちがバタバタする姿を描いた小説だが、実はここ数日、イチローを巡る状況が、まさにそうだった。

不在のまま取り沙汰された引退報道

「イチロー、野球やめるってよ」

 そんなうわさが飛び交う中、1日午後(現地時間)、マリナーズ戦を中継する地元放送局『ルート・スポーツ』のキャスター、ブラッド・アダム氏がラジオにゲスト出演すると、イチローとのやり取りを元に、「このホームスタンドが終わったら、引退を発表するつもりのようだ」と話したと報じられた。

 アダム氏とイチローの距離の近さは、知られるところ。よって、信憑性が高いとも考えられ、その裏取りに日米のメディアが右往左往することになるが、翌2日、アダム氏に聞くと、「そんなことは言っていない」と強い口調で否定。「引用の仕方がおかしい。飛躍しすぎている」と困惑の表情を浮かべていた。彼は、「イチローはマリナーズで、引退したいようだとは話した」と振り返ったが、それがなぜ週末なのかと首をひねった。

 その後アダム氏は、打撃練習に向かうイチローのところに歩み寄って事情を説明。そのときイチローは笑い声をあげたが、その時点までイチローは登場しない。

 本人不在のまま、勝手に回りで騒ぐというのは、まさに「桐島、部活やめるってよ」を地で行く、ストーリー展開だった。

そこから一気にシナリオ急転

 ところが、それから24時間も経たないうちに、シナリオが急転する。3日、イチローがロースターを外れ、「会長付の特別補佐に就任した」とマリナーズから発表された。

 引退ではないが、今季はプレーしない。来年に関しては、マリナーズで復帰するかもしれない、といった内容は異例づくし。もちろん、引退かという話に関しては、ベン・ギャメルが4月18日に戦列に復帰した前後からくすぶり、さまざまな見方があったわけだが、この落としどころは、想定外――まさか、である

 ただ、実際のところ、かなり早い段階から、このシナリオは想定されていたようだ。

 この日、取材に応じたジェリー・ディポトGM(ゼネラルマネージャー)は、3月に再契約したときから、こうなることは選択肢の一つだったのか? と聞かれて、「多くのうちの一つだった」と否定せず、続けた。

「イチローも、外野の状況を理解していたと思う。ギャメルがケガをしていることも」

 その後、「多くのうちの一つ」の比重が大きくなっていたのは、やはりギャメルが復帰してから。

「復帰が5月上旬までかかると思っていたけど、4月の半ば過ぎには戻ってきた。その時、われわれは改めて話し合いをすることになった」とディポトGM。「まず、内部で話し合った。それから、イチローや彼の代理人(ジョン・ボッグス氏)と話し合った」

 最終的な話し合いが行われたのは、「月曜日(4月30日)」とディポトGM。試合のなかったその日、本人も含めて関係者が意見を交わし、フロントオフィスに入ること、チームに帯同し、これまでと同じように練習することなど、細部が決まっていった。

会見で理由を語ったイチロー

会見で現在の心境を口にしたイチロー 【写真は共同】

 繰り返すが、前例のない措置だ。

 そんな中でイチローはと言えば、「この日が来るときは、僕はやめるときだと思ってました。その覚悟はありました」と話したが、「こういう提案がチームの方からあって、このチームがこの形を望んでいるのであれば、それが一番の彼らの助けになるということであれば、喜んで受けようと」と一連の経緯を明かしている。

 今季に関してもうプレーできないという事実は重い。しかし、マリナーズは来年以降の復帰の扉を閉ざすことはなかった。その配慮をイチローは受け入れた。

 もちろん、状況は厳しい。マリナーズが来年、契約してくれる保証もない。ただ、「それがあることで明確に……遠いですけど、目標を持っていられるっていうのは、大きなことです」とイチロー。

 44歳が、前例のない挑戦に向かって、歩み出す。

 なお、マリナーズは来年3月、日本で開幕戦を行う。そこではロースターが通常の25人ではなく28人となる。そこで打席に立っている可能性はあるのか?

 そんな問いに対して「融通がきく」とディポトGMは含みを残した。
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著者プロフィール

1967年、愛知県生まれ。立教大学経済学部卒業。出版社に勤務の後、95年秋に渡米。インディアナ州立大学スポーツマネージメント学部卒業。シアトルに居を構え、MLB、NBAなど現地のスポーツを精力的に取材し、コラムや記事の配信を行う。3月24日、日本経済新聞出版社より、「イチロー・フィールド」(野球を超えた人生哲学)を上梓する。

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