連載:未来に輝け! ニッポンのアスリートたち
フェンシングの町で培った技術を世界で 長野出身・西藤俊哉が描く五輪での夢
中学時代にスランプ 覚悟を持って東京へ
「個人と団体の銀メダルを獲れたのが大きい」と話す西藤。世界選手権での活躍が自信となっている 【スポーツナビ】
「ちょうど僕の上に強い世代がいて、中1になった時に中3の先輩たちに勝てなくなってしまったんです。僕は5歳からやっているのに、中学から始めた先輩たちに勝てない。当然、体の成長の差もありますが、その頃はそういうこともまったく考えていなかったので、どんどん自信がなくなってしまい、父に『フェンシングを止める』と言ったんです。それに対して父は何も言わなかったけど、2週間もやっていないとまたやりたくなってくるんです。それでいろいろ悩んでいたら、その前に受けていたトライアウトの合格通知が届いて。父に『お前、2次はどうするんだ』と言われたので『もう一回合宿に行く』と決めて参加したら、エリートアカデミーから声がかかったんです。それで中2から『これでダメだったら引退するしかない』という覚悟で東京に出てきました。それからは心が折れそうになった時や悩んだ時はあっても、止めるとは一切考えなかったですね。同世代の強い選手ばかりがいる環境に身を置けたことも良かったと思います」
13年には世界カデ選手権で3位になった。この大会では07年にロンドン五輪団体銀メダルの三宅諒(フェンシングステージ)が優勝していて、前年には1歳上の松山が優勝して坂田将倫(法政大)が3位になっていた。だから翌年の世界カデ・ジュニア選手権のジュニア部門で3位になった時、西藤はそのうれしさよりも優勝を狙っていたカデで早々と敗退してしまったことの方が悔しかった。同世代のライバルが次々と結果を出していたからこそ、負けん気に火がついたのだ。
「16年の世界ジュニア団体の優勝は、まだ自信を持てるものではなかったですね。個人も同学年の敷根と1年上の松山さんが金と銅だったし、準決勝で対戦した2人の勝った方が金メダルだろうという状況だったから。団体もその2人がいたからこそのチームで、正直、僕はまだ実力もなかった。でもその時はもうリオの団体戦の出場権を取れないことも決まっていたので、東京へ向けて世代交代を始めて強化していこうという中に、自分も入ることができて、いろいろな経験をできたことが良かった。だから17年の世界ジュニアで個人と団体で共に銀メダルを獲れたのは大きいですね。16年の後半から17年にかけていい感じでいろいろな経験をして、それが生きてきた中での世界選手権だったので、どの大会がキッカケになったというのではなく、本当に伸びた1年間だと思います」
ライバルたちと一緒に団体では金メダルを
東京の先のパリまで見据えて競技を続ける。そして地元・長野のフェンシング普及にも貢献したいと話す 【写真:田村翔/アフロスポーツ】
「僕たちは小さな頃から団体戦を組んでいるので、チームワークもできているのは大きいですね。東京五輪は団体戦がない予定だったのは承知していたから僕は個人で出るつもりでいたし、他の選手もそう思っていた。そういうライバル関係を持ったうえでのチームなので、太田さんが引っ張っていた当時の団体とは違う、僕たちが作っていく僕たちの色を出せる団体になるとも思います」
小2からは野球に熱中していたという西藤は、ひとつの公式を覚えればそれを応用して難しい問題も解ける数学や、謎解きも好きだという。さらに子供の頃は近所で“名人”と呼ばれていた祖父に習って将棋にも打ち込んだ。フェンシングの練習後に公民館へ行くと、祖父が持ってきてくれる詰め将棋を解くのに熱中したと。
「相手の弱いところを潰していって最後は自分が指すというのは、感覚的にフェンシングとも似ているので、今に生きていると思う」と笑顔を見せる。
育った環境や興味を持ってやったことのすべてが、今はフェンシングにつながっている。
「年齢的には東京の次のパリまでやれると思いますね。その先はまだ分からないけど、僕の場合はフットワークを武器にしているのでそんなに長くできるフェンシングスタイルではないと自覚しています。でも、その競技キャリアの中でしっかり結果を出していけばいいから。クラブを作って箕輪でここまでフェンシングを普及させた父は本当にすごいなと思っているので。今は結果を出すことが一番の父への恩返しだと思うけど、将来もし、長野に帰るようになれば僕がフェンシングを普及させていきたい。現役の間も帰った時にはクラブに顔を出したりして、できる範囲で恩返しをしたいと思っています」