オリックス安達、覚悟を決めた男の強さ 「同じ病気の人の励みになりたい」

週刊ベースボールONLINE

難病の潰瘍性大腸炎と戦うオリックスの安達、1年間試合に出続けることを今季の目標に掲げた 【写真:BBM】

 国が難病に指定する『潰瘍性大腸炎』を患う中で、周囲のサポートが野球への情熱をさらにかき立てた。監督、チームメート、そして何より同じ病を患う人のために──。覚悟を決めた背番号3、オリックスの安達了一は、たくましさを増している。

「自分では運命だと思うようにしている」

 ここ2年、よく聞かれるようになった質問がある。

「体は大丈夫か?」

 人に会えば必ずといっていいほど、体調の心配をされるようになった。どうしても「病気=大変」とイメージしてしまいがちだが、意外なほどに当の本人にはそんな意識はまったくない。

「自分では大変だと思っていないんですよ。こういう運命だと思うようにしているんです。そこまで重くとらえてないんですよね」

 生まれたときから野球選手になることが決まっていたなら、病気になることもきっと決まっていたはず──。周囲の心配をよそに、安達は驚くほど冷静に自身の運命を受け入れ、その上で真摯に野球に取り組んでいる。「(病気に)なったものは仕方ない」そう話す表情からにじみ出るのは開き直りではなく、決死の覚悟のように思えた。

 体に異変を感じたのは2015年11月、高知での秋季キャンプに参加しているさなかのこと。繰り返し来る急な腹痛に違和感を覚えた。それでも練習がこなせないほど激しいものではない。

「普通に風邪だろうと思っていたので、薬も市販のものを飲んだりしていました。あまり重く考えていなかったです」

 それでも状態は良くならず、キャンプが終わっても腹痛に耐える日々が続いた。年が明けてからも“普通の風邪”は安達の体に居座り、時に練習の邪魔をした。

病院へ行くとその場で緊急入院

 しかし、これまで大きな病気もケガもしたことがなく、体の丈夫さには自信があった。16年1月18日に自主トレを公開した際には体重が3キロほど落ちていたが「お腹が痛いだけで大丈夫だろう、治るだろうと思っていました」と自然治癒を目指した。チームに悲報が入ってきたのは、その5日後の23日。球団から発表された病名は『潰瘍性大腸炎』だった。

 まさか──そんな思いが走った。初めて聞く病名に当時28歳だった安達は、戸惑いを隠せなかった。

「全然分からなかった。何を言っているのかなって感じで……」

 春季キャンプを直前に控え、周囲に勧められての受診だった。少しずつ病にむしばまれてきた体は、すでに限界に近い状態まで弱っており、その場で緊急入院が決定。まず電話をかけたのは同い年で仲の良いT−岡田だった。翌日には2人でチームの顔として、その年のキャッチフレーズを発表するイベントに出席することになっていた。「入院することになった」と話すと「マジか……」と残念そうな声が返ってきたことは今でも覚えている。2人はその年から正式にチームの指揮を執ることになった福良淳一監督から、チームリーダーとして大きな期待を寄せられていた。

「申し訳ないなと思いましたね……」

 ここから安達の今日まで続く闘病生活が始まった。

入院中、自然と気持ちは野球へ

 まず、待ちかまえていたのは食事の制限だった。入院直後は主に点滴で栄養を補給し、まともな食事は取ることができなかった。

「ご飯は全然食べていません。おかゆは出たけど、おかゆって言うよりスープみたいな感じで全然おいしくなかった」

 これまで当たり前にできていたことができないつらさ。白米にありつけたのは2月10日に退院する直前のことだった。「普通のご飯が食べられるってなったら、めっちゃうれしかったですよ。ふりかけをかけて食べて『うまいなあ』って思いながらね」と久しぶりの味をかみしめた。

 19日間にわたる入院生活ではチームメートや妻の奈緒さんが毎日見舞ってくれたことも支えになった。

「毎日、誰か来てくれたので一人にならなかった。病院の一人部屋って寂しいんですよね」

 潰瘍性大腸炎の発症原因の一つとしてストレスが考えられていることから、医師には「野球のことはあんまり考えないほうがいい」とも言われた。「こういう機会だし、ゆっくりしよう、1回忘れてみよう」と、しばらくは野球から離れ、毎日好きな映画やドラマを見て過ごした。しかし、カレンダーを見れば2月、本来ならば参加するはずだった春季キャンプが行われている時期。これまでずっと野球をやってきた安達にとって、こんなに長いブランクは初めてだったこともあり「休んでいくうちに野球がやりたくなってくるんですよね。体がうずうずする感じ」と自然な形で気持ちが野球に戻ってきた。

難病と闘う中で周囲から得た活力

 潰瘍性大腸炎は大腸の粘膜に炎症が起き、ただれたり、潰瘍ができる病気のことで、日本では難病に指定されている。第一次内閣時代の安倍晋三首相を辞任に追い込んだのもこの病気だった。20〜30代の患者が多く、発症の原因も完治のための薬もまだ見つかっていない。患者は病気が活発になる活動期と症状が治まる寛解期を繰り返し、寛解期を維持するために薬や手術での治療が行われる。

 退院した安達も薬の服用を開始し、2月15日に練習を再開した。「体力はめちゃくちゃ落ちていました。薬を飲んだら副作用が出るのでそれもしんどかった」と体がだるくなる、首回りにできものができるといった特有の副作用とも戦いながら、徐々に強度を上げていった。宮崎でのキャンプには合流せず、その後のオープン戦でも本隊とは離れ、神戸でひとり黙々と練習に励む日々を過ごした。

「キャンプとかオープン戦の映像を見たりしていたんで、早くやりたいなというのはありました」

 再びグラウンドに立つ日が待ち遠しかった。

 順調に体力も回復し、練習も通常のメニューがこなせるようになった4月。2日に行われたウエスタン・リーグの福岡ソフトバンク戦で、その時がやってきた。スタメンで5回まで出場し、2打数無安打1四球。いきなりビジターでの復帰となったが、病気の影響でトイレが近く長時間の移動に不安を抱えていた安達に対し、田口壮2軍監督は「バスを何回止めてもいい。俺がお前を絶対に球場に連れて行くから」と言ってくれた。その心遣いがうれしかった。これまで不動の遊撃手としてチームを支えてきたが「このままだと試合に出られなくなるかもしれない」という思いも早期の1軍復帰への原動力となった。そして迎えた4月12日の日本ハム戦、背番号3が、ついに京セラドームに戻ってきた。

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