コーチも称賛する宮原知子の“辛抱強さ” 全日本フィギュア4連覇で涙の初五輪

スポーツナビ

「五輪に行きたいという一心で滑った」

 宮原知子(関西大)は泣いていた。彼女を指導する濱田美栄コーチも涙を止められなかった。初めてつかんだ五輪の切符。4年越しの思いが結実した。

 23日に行われたフィギュアスケートの全日本選手権女子フリースケーティングで、宮原は147.16点をマークし、合計220.39点で大会4連覇を達成。同時に平昌五輪の代表に内定した。

両拳に力を込めてガッツポーズをした宮原。「もうやるしかない」と覚悟を決めて臨んだフリーだった 【坂本清】

 前半の3回転ルッツ+3回転トウループは回転不足、後半の3連続ジャンプも出来栄えを表すGOEでマイナスの評価がついた。それでも演技構成点は出場選手で唯一の70点台(74.41点)。5コンポーネンツもすべて9点台と、スケーティングスキルや表現力で他を圧倒した。

「せっかくずっと全日本で優勝してきて、今回は優勝しか五輪出場への確実な道がないという中で、優勝しないわけにはいかないという強い気持ちがありました。絶対に五輪に行きたいという一心で滑っていました」

 演技が終了した瞬間には両手を挙げてガッツポーズをし、目からは涙があふれ出た。

「この全日本でしっかり復活するために、ずっと頑張ってきました。ショートプログラムではせっかく頑張ってきたジャンプがあまり良くなかったので悔しかった。フリーではもうやるしかないと思いながらやったら、それができたので、うれしくて……」

 宮原はそうはにかみながら、そのときの気持ちを明かした。

断ち切れなかった平昌への思い

けがの影響で苦戦した今季。濱田コーチ(写真中央)には、宮原を焦らせないようにとの思いがあったという 【写真:中西祐介/アフロスポーツ】

 宮原は今年1月に左股関節の疲労骨折が判明し、昨季の後半戦を欠場。その後も捻挫や体調不良が重なり、実戦復帰を果たしたのは11月のNHK杯だった。同大会こそ5位に終わったものの、次戦のスケートアメリカで優勝すると、エフゲーニャ・メドベージェワ(ロシア)の欠場に伴い、グランプリ(GP)ファイナルにも出場する。NHK杯から2週間ごとに実戦があったこともあり、試合勘も徐々に取り戻していった。

 それでも10月の段階ではまだ状態が上がっておらず、濱田コーチは「焦らずに5年後(の北京五輪)を目指して練習しましょう」と、宮原に語りかけたという。

「彼女は練習をしたい子。焦ってジャンプを跳んでもいけないし、練習をさせないということが難しかった。私はあの子にスケートを長く続けてもらいたい。そのためにも落ち着かせようと思ったんです」

 宮原は濱田コーチの言葉を黙って聞いていたが、「平昌五輪をあきらめたくはなかった」。シニアにデビューした2013年の全日本選手権は4位に終わり、惜しくもソチ五輪には届かなかった。その翌シーズンに初めて全日本女王に輝くと、昨年には3連覇を達成。世界の舞台でも実績を重ねていき、トップが手に届く位置まで来たのだ。かねてより「競技を続けているからには五輪に出たい」と願望を持っていた宮原が、その思いをそう簡単に断ち切れるわけがなかった。

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