中島翔哉はポルティモネンセの「宝石」 獅子奮迅の活躍ぶりで、称賛を集める
イベリア半島を代表するリゾート地・アルガルベ
ポルトガルリーグのポルティモネンセに移籍した中島翔哉が輝きを放っている 【Getty Images】
こんな質問をされたら、けっこう迷ってしまう。これまでいくつもの町や村を訪れてきたこともあり、いざとなると選択に苦労してしまうのだ。それでもあえて選ぶとすれば、やはり生活の利便性や、かつて長く暮らしたおかげで土地勘もある、首都リスボンに落ち着きそうである。いや、なんといっても、愛するベンフィカがある。週末は必ずホームのルス・スタジアムで過ごす。悪くない生活だ。
だが、夏休みを長くもらえるなら、南部アルガルベ地方で海を眺めながらゆっくりと過ごしてみたい。それはイギリス人や北欧の人々のまねごとになるかもしれないが、アルガルベのビーチはどこも魅力的である。アルガルベはイベリア半島を代表するリゾート地の1つなのだ。
長い歴史を持つポルティモネンセ
ポルティマンにサッカークラブ、ポルティモネンセSCが創設されるのはその翌年の8月のこと。今に至るまで引き継がれる白と黒の縦じまのユニホームを若者たちは身にまとった。サッカーは現在のように「futebol」とは表記されず、英語式に「foot-ball」と書かれ、選手たちは皆アマチュアだった。
クラブ創設の10年後には解散の危機に直面したこともあったが、なんとか乗り切り、37年にはアルガルベ地方の王者の座を射止めている。ポルティモネンセの成長曲線はその勝利に始まる。缶詰産業の隆盛と相まって、47年にはあと一歩で全国リーグ1部昇格というところまで至った。それから30年が経ち、ポルティモネンセは念願の1部への仲間入りを果たすのであった。時代はすでに、サラザール体制による独裁政治の終えんを3年前に見ていた。
残念ながら、栄光の日々は長続きしなかったが、80年代、卓越した手腕を誇った2人の会長の元で黄金時代を迎えた。84−85シーズンはリーグ5位に食い込み、翌シーズンはアルガルベ地方のクラブとしては初めてUEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)に出場している(結果は1回戦敗退だったが)。また、86年2月、スポルティング・リスボンのホーム、アルバラーデ・スタジアムで、ベルギー人FWカドランの2ゴールによってスポルティングを追い詰めたゲームは、最後は2−4で敗れたものの、今もサポータ−たちの間で語り種になっている。
しかし、90年代に入ると、クラブは勢いを失い、およそ20年間に及び、2部リーグと3部リーグの間を行ったり来たりするまで弱体化してしまうのであった。
日本人は幸運をもたらす?
ポルティモネンセは元浦和のポンテがテクニカル・ディレクターを務めている(写真は2007年) 【写真:アフロ】
13年夏には、ドイツのニュルンベルクから金崎夢生が移籍してきた。1シーズンで7ゴールをマークし、サポーターの間でもなかなかの人気者であった。金崎は15年冬にJリーグへ戻ってしまったが、日本人選手に対する好印象を残すことになった。16−17シーズン、ポルティモネンセはセグンダ・リーガ(2部)を初制覇、17−18シーズンを1部リーグで迎えることになったのである。
ここで触れておきたい事実がある。ひとつは、14年から、日本で生まれ育った若手MFテオドロス・リュウキ・カメクラがポルティモネンセでプレーしていること。さらに、昨年12月に、元浦和レッズのロブソン・ポンテが海外担当テクニカル・ディレクターに就任していることである。日本とは太いパイプでつながっているのだ。