相川亮二が歩んだプロ生活23年 “キャッチャー歴数カ月”から名捕手へ
一番思い浮かぶのは「2度のFA移籍」
最初のFAでヤクルトへ移籍。体を張ってホームベースを死守することも多かった(写真は13年に阪神・マートンに激高した場面) 【写真:BBM】
──アテネ五輪はオールプロで臨んだ最初の五輪でした。
ものすごく、プレッシャーはありましたよ。ただ、個人的には、一流のプロ野球選手たちが集まって集団生活を行い、その中で見せる行動、生活には刺激を受けましたし、城島だけではなく、ノリさん(中村紀洋/元近鉄ほか)、宮本慎也さん(現ヤクルトヘッドコーチ)らのトップ選手と野球の話ができて、さらなる肥やしになったというか、五輪で成長させてもらったと感じています。
──日本代表としては06年の第1回WBC、13年の第3回WBCにも出場していますね。06年は世界一に輝いています。
06年のWBCはいろいろなことが起こりましたし、敗退を覚悟した中で生き残って、世界一ですからね。それもスポーツの面白さというか。トータルで3回、日の丸をつけさせてもらって、その重みをその都度、感じながらプレーできたのは僕の財産です。所属のチームとは別の戦いを経験させてもらいました。
──23年間のプロ野球生活を振り返るときに、真っ先に思い浮かぶのはどのようなことでしょうか。
フリーエージェント(FA)で2回移籍をしたことが一番最初に頭に浮かぶことで、その次は優勝ができなかったことですかね。
──FAですか。
23年前に当時の横浜ベイスターズにプロの世界へ入れていただいて、できればそこでずっとプレーをしてプロ野球選手生活を全うしたい気持ちはありました。最初にFAで移籍(09年)したヤクルトもとてもいい球団。それでも自分のエゴで(FAで)出て行っているわけですから……。そこにはそのときの自分の置かれている状況であったり、優勝したいという思いもあったりと、さまざまな事情があったわけですけど。ただ、チームメートたちを置き去りにして、「ここから頑張ろう」と言っている中で出て行くわけですから。簡単な決断ではなく、葛藤がありながらのFAでした。
──“優勝”を求めての移籍でしたが、そこに届きませんでした。
23年、何度かチャンスはあったんですけどね。残念ながら……。
──ヤクルトでの2011年は、4月から首位を守り続け、10月に入ってから中日に逆転で優勝を許してしまいます。最も優勝に近づいたシーズンでした。
あの悔しさは今でも忘れられません。キャッチャーで、レギュラーで出て優勝してなんぼというのを、ずっと目標にやってきたので。
──巨人でも在籍した3年間は優勝争いには絡むものの、3年連続でタイトルとは無縁でした。引退セレモニーでは「力になれず、申し訳ありません」と巨人ファンに向けたコメントが印象的です。
ジャイアンツでは移籍した初年度(15年)が優勝の最大のチャンスでしたが、その中で肉離れと骨折で2回も戦列を離れてしまいました。最終的に出場試合数も40試合にとどまり、結局、優勝も逃すことに。もっとやれると思いながら移籍してきたので、その部分で期待に応えられなかったことが、このコメントにつながっています。ヤクルト時代を含めて、最後の5シーズンはフルにレギュラーという形ではなかったですし、ジャイアンツに来てからはもっとそうなってしまったので。そこの部分がちょっと引っ掛かるというか、もっと何とかなったんじゃないかと思うところはあります。ただ、後悔はありませんよ。
──さて、年内はゆっくりするとのことですが、相川さんの今後について、現段階で想い描いているビジョンを教えてください。
一番遠くの目標としては、いつか、監督として母校・東京学館高に戻りたいですね。何歳のときになるかは分かりませんが、母校は甲子園に行ったことがないので、恩返しの意味も含めて。数年後というところでは、コーチとしてプロの世界に戻って、後輩たちの成長を後押ししたい。今回、ジャイアンツからはコーチのお話もいただいたんですが、まだ勉強不足と思っていますし、いつになるか分かりませんけど、また、もし、声を掛けてもらったときに、期待に応えられるように。人の人生を預かる仕事ですから、しっかり成長させられるコーチになれるように、今後は勉強をしていきたいと考えています。
(取材・構成=坂本匠)