相川亮二が歩んだプロ生活23年 “キャッチャー歴数カ月”から名捕手へ

週刊ベースボールONLINE

谷繁の動きを見てスキルアップ

横浜では2004年からレギュラー定着。スローイングの正確性に定評があった 【写真:BBM】

 東京学館高では外野手だったが、強肩を生かすためにキャッチャーにコンバートされたのは3年生の春のことだったという。キャッチャー歴数カ月でのプロ入りは無謀ともとられたが、数年の下積みの末に徐々に頭角を現していった。

──95年に横浜から5位で指名を受けての入団ですが、キャッチャー歴は1年でのプロ入りだったとか。

 1年どころではないですよ。5カ月くらいかな。だから、プロに入ることは考えてもいなかったんです。高校3年の時点では、大学で野球を続けたいなと。子どものころからプロの世界は夢には思っていましたけど、現実には考えたこともなくて、まさかですよね。

──指名は驚きだった。

 そうですね。スカウトの方が見に来られているのは分かっていましたけど、本当に指名してくれるかも分からないですし、他人事でした。

──横浜に入団をして、それまで思い描いていたプロの世界との違いはありましたか。

 レベルの高さには驚かされました。2軍の選手ですら、「なんだココは」の力の差。本当に自分はココでやって行けるのか、とショックを受けるくらいでしたね。

──ただ、そこから23年間プロ野球界で生き抜くことになります。その要因はどこにあったと思いますか。

 自己分析力ですかね。他の選手と比較してどうだとか、自分の立場とかを常に理解できていました。その能力は今でも自信を持っているもので、現役中は1軍に行くために、1軍で試合に出るために、などと分析し、それをうまく利用して成長できたことが、23年間の現役生活につながったのだと思います。

──95年の入団ですが、99年に1軍デビューするまで、丸4年間を2軍で過ごすことになります。

 いま思えばプロとしての意識がまったくなっていない4年間でした。高校野球の延長で、ただ野球をしているだけ。でも、4年目を迎えてこれはマズイなと。入団して4〜5年で1軍に行けないと、ほとんどの人が戦力外になるのを見ていましたから。このままでは自分もそちら側にいってしまうと感じて、4年目が終わったときに、「5年目に1軍に行けなかったら野球を辞めます」と宣言しているんですよ。初めてプロ野球選手として本気になった時期でした。

──99年以降は少しずつ1軍での出場数を増やしていくわけですが、正捕手・谷繁元信(前中日監督)が立ちはだかります。相川さんにとってどのような存在でしたか。

 最終的に超えることができなかった大きな存在ですが、近くでプレーを見ることができ、ものすごくよく接してもいただきました。1軍で一緒にやれたのは谷繁さんが中日に移籍する2002年までの3シーズンでしたが、その動きをずっと観察していました。リード面、技術を吸収させていただき、自分のキャッチャーとしてのスキルが上がったのは、間違いなく谷繁さんのおかげです。

──影響を受けた1人なのですね。

 ものすごく受けたと思います。谷繁さんがいなければ、その後の僕はなかったかもしれません。

──04年に初めて100試合に出場し、翌05年から不動の正捕手となっていきます。

 1999年に1軍に上がり、谷繁さんに学ぶ中で1軍でもやれる相当な自信がありました。でも、谷繁さんが移籍した後の2年間はキャッチャーとしてもダメだし、バッティングもまったく。打ちのめされて、どん底に落ちて、ゼロからつくり上げて形になってきたのが2004年ころですね。

──この年はアテネ五輪にも出場しています。

 代表には城島(健司/元福岡ソフトバンクほか)がいて、彼と話をする中で、僕の考えが間違えていないんだということを確認できたのも大きいです。自信を持って五輪後の残りのシーズンにも臨めましたし、実際、その翌シーズンから成績が伴い始めました。

2/3ページ

著者プロフィール

新着記事

スポーツナビからのお知らせ

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント