久保建英が持つ最も強烈な「資質」 適応力と挑戦心を武器にプロの舞台へ

川端暁彦

FC東京と16歳でプロ契約を締結

11月1日、16歳の久保建英はプロサッカー選手としての新しい一歩を踏み出すこととなった 【写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ】

 2017年10月にインドで行われたU−17ワールドカップ(W杯)でその旅を終えたU−17日本代表の2年半にわたる活動は、久保建英がスペイン・バルセロナから帰ってきてFC東京というクラブで過ごした2年半とも一致していた。その意味で、このW杯での敗退がひとつの区切りとなることは自然なことだったかもしれない。11月1日、16歳の久保は「プロサッカー選手として生きていく」という宣言とともに、FC東京で新しい一歩を踏み出すこととなった。

 わずか10歳でFCバルセロナに渡り、大きな注目を集めてきた久保が日本に帰ってくる。そんなニュースが駆け巡ったのは2014年の末のことである。国際サッカー連盟が18歳未満の国際移籍を禁止している規定に反しているとして、過去の慣例的に問題ないと思われていた久保の移籍についても問題視した結果だった。失意の帰国であったのは違いない。そして、まさにそのタイミングで森山佳郎監督率いるU−15日本代表は15年に、2年後のU−17W杯出場を目指した活動をスタートさせることとなり、その招集リストに久保の名前も入った。

 当時、指揮官にはある種の逡巡(しゅんじゅん)もあった。余りにも大きな注目度の高さがチームにとっても、久保自身にとっても、マイナスに作用するのではないかという不安感だ。最初の招集を国内合宿ではなくインドネシア遠征にしたのも、“久保目当て”で大量に人が集まるようでは悪い影響が出るのではという配慮からだった。そして同時に指揮官は、本人に対しても明確なメッセージを送る。「特別扱いはしない」ということだ。

「日本に帰ってきて最初に呼ばれたインドネシア遠征、東京合宿、その次のタイ遠征の3回とも自分はベンチスタートだった。自分よりうまい選手が11人いるという状態でした」(久保)

 欧州でやってきた実績を軽視はしていない。何よりそのタレント性について、森山監督も一目で認めたのだが、すぐにポジションを与えることはなかった。指揮官から突き付けられたのは、「レギュラーが欲しければ、努力して奪ってみろ」とでも言うべき挑戦状である。苦手な守備のタスクも厳しく課して、本人にも甘い言葉は言わなかった。最初の遠征を終えた段階で、久保に近い関係者に対して、スタッフを通じて「このままなら、もう呼ばないかもしれない」とまで伝えている。

「ハッキリ言って『日本の選手は本当にうまいな』と思っていました。本当に悔しかった。自分よりレベルの高い仲間を越していくこと。それが自分の短期的な目標になりました」(久保)

非凡な適応力でU−15代表に定着

バルセロナから日本に戻った久保(中央)は異なる環境にも前向きに取り組み、着実に信頼を勝ち取っていく 【Getty Images】

 チームとしての戦い方を消化しながら、得意の攻撃で結果も出す。東京合宿でもタイ遠征でも「バルセロナから来ました」といった態度ではなく、真摯(しんし)に前向きに取り組み続ける久保に対して、周囲の目も変化した。チームメートとの信頼関係も着実に構築される中で、森山監督も久保の扱いを少しずつ変化させていく。「いいプレーをした選手が次の試合に出る」という方針を貫いていただけに、久保にとっても分かりやすい指標だったのだろう。本人も「一番成長を感じられた」と当時を振り返る。

 当時所属していたFC東京U−15むさしもU−15日本代表も、それまで久保が過ごしていたバルセロナとは異なるサッカー観を持ち、ベクトルの違う戦術を採用しているチームだった。それだけに「このサッカーだと久保は生きないのでは?」という心配をする関係者もいたのだが、久保自身は異なる環境に対して前向きに取り組み、着実に信頼を勝ち取っていった。技術やセンス以上に、「監督のせいにしないで、どこでやっても100パーセント自分の力を引き出せる選手になりたい」(久保)という前向きに努力していくメンタリティーこそ、久保の持つ最も強烈な資質なのだと気付いたのは、このころである。

 思えば、たった10歳で遠くバルセロナまで渡り、言語や文化、人種の壁もすべて突き破って、現地で信頼を勝ち取ってきた選手である。その適応力は非凡だった。

 U−15代表でレギュラー格になって結果を積み重ねるようになると、16年3月には次のハードルが用意された。

「それでも満足しないように、サニックス杯にも呼んでもらえた」(久保)

 森山監督は久保にとって2個上にあたるU−17日本代表が参加するサニックス杯国際ユース大会のメンバーに彼を選んだ。久保はこの指揮官について「僕らにすごく競争を生んでくれる監督」と言っていたことがあるのだが、実際にしっかりハードルを用意し続けた印象がある。

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著者プロフィール

1979年8月7日生まれ。大分県中津市出身。フリーライターとして取材活動を始め、2004年10月に創刊したサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊事業に参画。創刊後は同紙の記者、編集者として活動し、2010年からは3年にわたって編集長を務めた。2013年8月からフリーランスとしての活動を再開。古巣の『エル・ゴラッソ』をはじめ、『スポーツナビ』『サッカーキング』『フットボリスタ』『サッカークリニック』『GOAL』など各種媒体にライターとして寄稿するほか、フリーの編集者としての活動も行っている。近著に『2050年W杯 日本代表優勝プラン』(ソル・メディア)がある

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