大田泰示、「全力プレー」の原点 紆余曲折の野球人生をたどる

週刊ベースボールONLINE

モットーとして掲げる「全力プレー」。大田の原点にはその言葉がある 【写真:BBM】

 巨人のドラフト1位でスタートした華々しいプロ人生。大田泰示は人一倍の期待を背負う中、持ち味である「全力プレー」からかけ離れ、苦悩にさいなまれた。だが苦節を経て、新天地の北海道日本ハムで息を吹き返した。プロ野球選手の概念を覆され、全力プレーに心奪われた少年時代。自身のスタイルを確立し、羽ばたいた高校時代。そして見据える、現在の密かな目標とは──。決して勇往邁進ではなかった、紆余曲折の野球人生の軌跡をたどる。

不器用な少年が焦がれた「一生懸命」な姿

 砂埃をまき散らし、迷わず飛び込んだ。メットライフドームで行われた4月23日の埼玉西武戦。大田は今季初打席で、信念を体現した。2回無死二塁。打球はショートの守備範囲。ゴロでも、一塁ベースに向かってヘッドスライディングした。立ち上がると、ズボンのベルトは切れていた。気迫満点で内野安打につなげた。

「ケガを恐れていたら、野球にならない」。3月に左腹斜筋の筋挫傷を負い、この日が今季初昇格初出場。野球選手として掲げ続けてきた「全力プレー」に、新天地のファンは大歓声で歓迎してくれた。ワンプレーに全身全霊を注ぐ男を堂々、証明した。

「自分の中で全力プレーをするのは不器用だから。そういうことしかできないから、それは絶対モットーにしている。忘れちゃいけない部分。調子が悪いときがあれば、人って落ち込むし、気持ちもダレるし、全力でやらなくなるのがやっぱり人間だと思う。だけど自分の中ではダメなときでも、一生懸命やっている姿をお客さんに見せるのが、僕らの仕事だと思うし、それを見て何かを感じてくれる人も絶対にいる」

 少年時代の鮮烈な記憶が、プレースタイルの根底にある。広島県北部にある三次市出身。現巨人打撃コーチの二岡智宏や現阪神2軍育成コーチの福原忍ら、プロ野球選手を多く輩出してきた地で3歳まで育った。物心がついたときには、三次高で投手だった父・幹裕さんとキャッチボールを始めていた。同県福山市に移り住むと、小学1年で県内でも盛んだったソフトボールを始めた。野球への関心が芽生え始め、巨人ファンの父と広島市民球場に通った。初めて感じた衝撃と興奮に襲われた。

「大歓声の中で大人の人たちが一生懸命、野球をやっているカッコよさ。みんなに応援されることもカッコいいなと思った。そこで初めて夢を見つけた。ここで自分は野球がしたいんだって」

 目の前に飛び込んできたのは真っ赤に染まった客席。その中心で現広島監督の緒方孝市や故・木村拓也氏、新井貴浩らが泥にまみれ、ひたすら白球を追いかけていた。想像していたクールでスタイリッシュな「プロ野球選手像」は、すがすがしいほどに打ち壊された。

「本当にみんな一生懸命にボールを追っかけて、内野安打になりそうになったら一塁にヘッドスライディングするし、負けている展開でも一生懸命やっていた。その姿を見て『プロ野球選手ってカッコいいな』と思った。カープのファンにもなった。僕の原点になっている」

 全力プレーへのあこがれとともに、スラッガーの血が沸き立った。観戦したのは、決まって広島対巨人戦。松井秀喜のフリー打撃を見て、心は躍った。木製バットで響かせる快音。練習中から熱狂するファンの歓声。父の実家に貼られていた長嶋茂雄の三振姿のポスターはいまでも覚えている。

「巨人の試合を見る楽しみってホームランバッターがいるから。ホームランを見たかった」

 広島と巨人。両方の魅力を楽しみ、夢中になった。そして、運命を感じて止まない日が訪れた。

胸を張れる練習量で導かれるようにプロへ

東海大相模高時代。原辰徳元巨人監督との出会いが運命の分岐点となった 【写真:BBM】

 福山市立城南中2年の冬だった。肌寒さと高揚感に包まれる中、原辰徳と出会った。県内の軟式野球チームが集められ、原辰徳のほかにも緒方耕一ら巨人OBによる野球教室が開かれた。大田は当時から恵まれた体格で、同級生の中では群を抜いていた。積極的に参加者の前に出て、学ぼうとする姿勢も功を奏したのだろう。すぐさま、原の目に止まった。大田は参加者の代表で、素振りを披露。「高校時代のオレを超えている」と褒められた。そこからは「なんか、わけ分かんないまま話が進んでいった」と他人事のように振り返る。思わぬ巡めぐり会いを経て、夢に向かって進んでいった。

 原から東海大相模高への進学を勧められたが、実は校名すら知らなかった。「強い」といえば、広陵高や広島商高くらいだと思っていた。

「相模ってどこだってなって、原さんの母校だってなって。すごく自分の中で新しい世界がどんどん広がっていったのはいまでも覚えています」

 越県進学に不安はなかった。元々、他県への進学を目指していたため、原から後押しを受けた形だった。

「広島で野球はやりたくないという思いがすごくあった。視野を広げたかった。プロの夢は見ていたけど、こんな田舎からじゃプロ野球選手にはなれない。難しいなと思っていた」

 東海大相模高の練習を見学し、広島県内の高校の見学にも足を運んだ。そこで全国レベルの差を目の当たりにした。

「相模の練習試合を見たら、すごかった。やっぱりレベルが違うなと思った。見て、すぐに(進学を)決めた」

 見学を終え、東京から広島へ向かう帰りの新幹線。父の幹裕さんに「相模に行く」と一言だけ伝えた。父も同じだった。「お前に任せる」と尊重してもらい、覚悟は固まった。故郷を離れ、全国の猛者が集まる名門に飛び込んだ。

 東海大相模高では1年の中でも大きな体は目立っていたが、ベンチ入りするのは自分より小柄な同級生だった。ポジションが違っても、関係なかった。

「1年生でメンバーに選ばれるってすごいから、自分も選ばれたかった。励みにはなりましたよね。頑張んなきゃいけないなって、悔しいし」

 熱血漢の門馬敬治監督の元で、野球への取り組み方や気持ちをあらためて身に付けた。野球に全力を注ぐことは惜しくなかった。ただ、うまくなりたい一心だった。

 3年間で誇れるのは練習量。特に主将を務めた2年秋からは「練習の虫」だった。全体での朝練習はないが、午前5時半には起床。必ず屋外で1時間ほどの打撃練習に励んだ。

「朝バッティングすると気持ちいいものがある。すごい清々しい朝を感じられる。そういうものがあるから、練習をやっていて苦じゃなかった」

 授業が終わると午後4時からシートノックがスタート。全体練習が8時半に終わると、夕食後の10時ごろから再びバットを振った。

「貪欲な人は、貪欲に練習するよ。そういうのはみんな態度、行動に表れる。中途半端な気持ちでやっている人は中途半端だし。それは本当に気の持ちようというか、意識の持ちよう。高校のときにそれを教えてくれたから今につながっているんだと思います」

 大田の場合、技術向上はもちろん、不安や焦りを減らそうと日夜、練習に打ち込んできた。とにかく必死だった。3年時はサードからショートに転向。夏の北神奈川大会決勝では、当時の大会新記録5本塁打目をマーク。3年間で甲子園出場はなかったが、高校通算65本塁打、地肩の強さもある大型遊撃手として「ドラフト1位候補」の評判は広がった。ドラフトでは巨人と福岡ソフトバンクから1位指名を受けた。交渉権を獲得したのは巨人。クジを引いたのは、原だった。

「すごい運命。縁を感じました」

 夢を叶えたと同時に、これが試練の幕開けでもあった。

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