1日でも長く一緒に野球を――報徳学園、勇退の名将に送る大勝

楊順行

「今日が最後のユニホームかも…」

多治見に21対0と大勝し、初戦を突破した報徳学園 【写真は共同】

 背中の寒くなる試合、ではなかった。

 過去甲子園で数々のドラマチックな試合を演じ、“逆転の報徳”と呼ばれるチームを率いて23年。今大会を最後に勇退する報徳学園(兵庫)の永田裕治監督は、多治見(岐阜)との1回戦を前に、こんなふうに語っていた。

「今日だけは、背中の寒くなるような試合はしてほしくないですね(笑)」

 たぶん、これまで報徳学園が演じてきたような、しびれる試合はしたくない、ということだろう。相手は21世紀枠とはいえ、秋季岐阜大会を優勝した力がある。対して報徳学園は、「秋はどんだけ弱かったか。エースの西垣(雅矢)にしても、近畿大会では最速が132キロですよ」(永田監督)。

 だから、「初戦がものすごく怖かった。ユニホームに着替えるとき、ふと、このユニホームも今日が最後かもしれない、と思いました」。

センバツ出場決定直後に決めた勇退

選手としては1981年夏、監督としては2002年春に全国優勝を経験している永田監督 【写真は共同】

 永田裕治。1981年夏、金村義明(元近鉄など)がエースだった報徳学園の右翼手として全国制覇を達成した。中京大では主将を務め、その後は桜宮のコーチなどを経て90年から母校へ。監督になったのが94年で、阪神大震災から約2カ月後の翌年センバツが、自身の甲子園初勝利だった。「大震災のあと、選手には“笑顔で、はつらつと試合をしてほしい”としか言えず、そして、その通りにプレーしてくれた」ことが、指導者人生の核になっている。

 2002年春には、大谷智久(現千葉ロッテ)を擁して全国V。地区大会1位校が集結する、現行制度の神宮大会との“秋春連覇”は、この報徳学園と97〜98年、松坂大輔(現福岡ソフトバンク)を擁した横浜しかない。今大会前まで、甲子園春夏通算20勝(16敗)は出場監督中4位だ。

 選手として、また監督として優勝を経験している名将が、選手に勇退を告げたのはセンバツ出場決定後だった。「もともと、いつバトンをつなぐかを考えてきた」永田監督。後任として教え子で、春夏4回甲子園出場の大角健二部長を育ててきた。そろそろ頃合いも良し。ただ選手たちは、いったん戸惑ったという。岡本蒼主将は、「本当に驚きました。ですが、いまは1日でも長く永田先生と野球がしたい。甲子園では目の前の1試合1試合を戦って優勝したいです」と有終の美を目標に掲げたものだ。

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著者プロフィール

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。高校野球の春夏の甲子園取材は、2019年夏で57回を数える。

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