滋賀入りを決断した並里成 3度の挫折も忘れられないNBAへの思い

カワサキマサシ

違う思いで臨んだ今年の米国挑戦

琉球時代にはbjリーグベスト5に選ばれるなど、チームの中心選手として活躍した 【写真:アフロスポーツ/bj-league】

 帰国後は大学に進まず、2009年にリンク栃木ブレックスに加入。11年に2シーズンを過ごした栃木を退団し、NBAを目指して初めての米国挑戦に打って出る。しかし当時のNBAは労使協定の難航によってロックアウト状態にあり、自分の力を見せる機会すら得られなかった。次は2012−13シーズン後。bjリーグのベスト5に選ばれるなど、琉球ゴールデンキングスの中心選手として押しも押されもせぬ存在だったが彼はチームを離れ、米国再挑戦の道を選んだ。

「あのときは、ずっと自分の目標だったNBAでプレーしたい、ただ自分のために行きたいという思いでした。Dリーグのドラフト候補に自分の名前もありましたが、指名がなく……。自分の中で手応えはあったんですけれど、それなのに選ばれなかったということは、なにかが足りなかったのかなと思いながら。かなり良いところまでいっていたので、すごく悔しい気持ちでした。でもそれが自分の中でモチベーションになったし、全然手が届かないものじゃないと思いました」

 2度目の米国挑戦後の14年2月に沖縄に復帰し、昨シーズンは大阪エヴェッサに移籍してプレーした。大阪はbjリーグの最終年に優勝を目標に掲げていたが、それを果たせず。彼自身も中盤以降はベンチスタートが定着し、残した結果は満足のいくものではなかった。

「昨季は自分の中でいろいろとクリアにして、違う場所で自分を磨いていかないといけないと思って大阪に移籍しました。結果に関しては不完全燃焼の思いもありますが、それは僕がバスケットボールをやっていくうえで、いつでも必ずあると思う。やり切ったと思ったら、たぶん引退します。シーズンの結果が出なかったことは悔しいですけど、自分が成長するために大阪に行ったという意味では、すごく良い1年だったと思うし、これから先につながる1年でした」

 環境を変えた大阪での1シーズンで、新たな手応えを得た。それを携えて彼は今年の夏、3度目の米国に渡った。その胸の内に、これまでとは違う思いを抱えて。

「五輪が20年に東京で開催されることが決まって、そこで僕が日本のバスケットボールを引っ張っていかないといけない責任も感じています。世界と戦うためにはまず僕が世界に出て、肌で感じた世界の良いものを日本に持って帰るという思いで今回は行きました。だから前回までの、とにかく『自分のためにNBAでプレーしたい』というのとは、違う思いでした」

「米国は自分の可能性の範疇(はんちゅう)にある」

並里は「米国は手が届く場所だと思っている」と、NBA入りへの思いを語った 【素材提供:(C)B.LEAGUE】

 前回の経験から全米各地で開催されるトライアウトの特徴を見極めるなど、より準備を周到にし、トレーニングもさらにハードに取り組んだ。前回以上の好感触を持ち、実際にロサンゼルスのあるチームのGMから、ドラフト前に「指名する」との電話もあった。しかし……。

「『よし、出番が来た』と思って準備していたのに、ドラフトにかからなかった。前回よりも手応えがあったし、今回の方がかなり悔しかった。ドラフトでは僕よりもよっぽど良い、NBAにいけなかった選手が残っていて、その選手を獲ったんだろうとプラスに考えていますけれど……」

 味わった悔しさ、落胆は前回の比ではない。

「ドラフトが終わってスケジュール的にはすぐに帰って来られたんですけれど、帰国の準備もしたくなかった。だから1週間休んで時間をとって、気持ちの整理をつけました。その1週間はバスケをしなかったですし、ボールすら触らなかった。そんなことは、今までになかったかもしれません。バスケのことを一切考えず、ほかのことをぼーっと考えて。ショッピングだったり、暇つぶしにいったりしていました」

 今後の道を模索する中に、日本でプレーする考えはなかった。そんな彼の心を動かしたもうひとつにして、最大の要因は息子の存在だ。

「米国でドラフトが終わってからも、給料がなくても米国でプレーできるチームがないか探していましたが、結果的になくて。日本に帰るころに気持ちの整理はついていましたが、自分の中で日本でプレーする気はまったくありませんでした。でも沖縄に帰って息子の顔を見ているうちに、どこでプレーしようと自分の目標は変わらないし、息子のためにもやろうと。しっかりメシを食わせてやらないといけないし。息子に会ってからですね、日本でやろうと思ったのは」

 それから滋賀との交渉を開始し、11月の加入発表へとたどり着いた。発表された契約期間は18年6月30日までの2シーズン。今年27歳という年齢を考えると、米国挑戦にはひと区切りをつけるのか。そう問うと、静かに首を横に振る。

「米国でプレーする目標は、もちろん持ち続けています。次がどのタイミングになるか自分の中で決めていないですけれど、いずれまた米国に挑戦することは間違いありません。そのために、今は滋賀でよりステップアップする。僕にとって今も米国は自分の可能性の範疇(はんちゅう)にありますし、手が届く場所だと思っています」

 他を圧倒するスピードと敏しょう性、そこから繰り出す創造性に満ちたパス。一瞬の魔法のようなプレーで見る者を魅了するガードのプレーヤーには、いつしか“ファンタジスタ”の異名が付けられた。そんな彼にとって、初めてその地を踏んだときから米国は憧れの場所ではなくなった。並里成の希望の火は、燃え続けている。

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著者プロフィール

大阪府大阪市出身。1990年代から関西で出版社の編集部員と並行してフリーライターとして活動し、現在に至る。現在は関西のスポーツを中心に、取材・執筆活動を行う。

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