“怪物”江川を引退に導いたあの一発 小早川毅彦氏が振り返る運命の瞬間

週刊ベースボールONLINE

打席が回ってくると確信していた9回

現役引退が決まり記者会見を行う江川(中央) 【写真は共同】

 第3打席も“カーブ待ち”だ。

「江川さんは“勝ちにきている”と思ったんですよ。自分の投球じゃなくて、勝敗にこだわるんじゃないかと。だから僕には初球カーブだろうと予想し、そのとおり来た。打った瞬間にホームランと思いました」

 これで1対1の同点だ。しかし、やはり江川は崩れない。8回表には巨人の4番・原辰徳のタイムリーが生まれ、巨人が1点を引き離す。

 9回裏、打順は1番から。4番の小早川は4人目となるが、絶対自分に回ってくると確信していた。

「この試合、広島が勝つにしても負けるにしても、自分のところじゃないかなと思っていたんです」

 ただ、正田耕三がサードライナー、代打・長内孝が見逃し三振。続く高橋慶彦もファーストへのボテボテのゴロ……。万事休すと思ったが、ファーストの中畑清からベースカバーに入った江川への送球がそれ、エラー気味の内野安打となった。そして、小早川の第4打席が回ってきた。

打つ前から球種もコースも分かっていた

「打席に入るときは、とにかく負けたくなかった。チームの勝ち負けじゃなくて、きょうの江川さんには負けたくなかったですね」

 球種もコースも分かっていた。インハイ速球だ……。

「そう思ったというより、江川さんの体から、そういうオーラが出てましたね。“打てるもんなら打ってみろ”みたいな。(捕手の)山倉(和博)さんがサインを出しながら、ぼやいてるのも聞こえました。“ほんとかよ”みたいな(笑)。変化球のサインを出しても聞き入れなかったんでしょうね。しかも、山倉さんはすべて外角に構えていたらしいけど、江川さんはインコース高めしか見ていないんです(笑)」

 1球目、高めのストレートをファウル。

 2球目、高めに外れるボール。

 江川の球はうなりを生じていた。「このとき慶彦さんが二盗。ただ、江川さんはランナーも無視。1点差で二塁には行かせたくないはずですが、まったく気にしてなかったですね」

 3球目、ストレートを空振り。

 打席の小早川は、いわゆる“ZONE”に入っていた。

「視界には江川さんのシルエットと投球のリリースポイント、耳にはボールが空気を切る音とバットのスイング音くらいしか聞こえなくなってきた。歓声もまったく聞こえませんでしたね」

 4球目、高めのボール球。2−2の並行カウントだ。

 そして5球目──。

「この試合で一番速い球だったと思いますが、再現フィルムというんですかね、江川さんの投げた球が糸を引くようにピュッと来た。初めての場面なのに、過去のVTRを見ているみたいでした。普段はそんなことはないんですが、バットがボールに当たった瞬間までくっきり見える。打った後の打球も、ゴルフ中継でありますよね。ボールの軌道のラインを映像処理で見えるようにするとき。あれと同じで、まるで糸がついているみたいに見えました」

 ライトスタンドへの逆転サヨナラ弾。江川はマウンドに片ヒザを着き、下を向いた。真っ赤だった目からは試合後、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「本当のところは江川さんしか分からない」

 その後、江川はレギュラーシーズン3試合、西武との日本シリーズ1試合に投げ、11月12日、誰もが驚いた引退会見を行う。右肩の限界もあったが、怪物の心を断ち切ったのは、小早川に浴びた一発。「あのとき、野球人生が終わったと思った」と語っている。

 あれから20年近くが過ぎた……。「引退後、江川さんとあのときについて話したことはありますか」と尋ねた。2人は法政大の先輩後輩。引退後も顔を会わせ、言葉を交わすこともある。

「1回もないです。僕から言い出すわけにもいきませんしね。ただ、本当のところは江川さんしか分からない。本当かもしれないし、江川さんが『いや、実はあれは違う……』なんて手記を書かれる可能性もあるでしょ(笑)」

 試合を振り返るとき目の奥にかすかに光っていた勝負師のぎらつきが消え、いつもの温和な笑顔がそこにあった。(文中敬称略)

(取材・構成=井口英規)

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