再び海を渡るG大阪の「最強エース」 宇佐美貴史が見せた苦難への覚悟
名古屋戦で見せた精神面の成長
アウグスブルクへの移籍が決まった宇佐美。27日のラストマッチを勝利で飾ることはできなかった 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】
「J2のガンバに帰ってきて恐怖心ばかりだった自分の心が柔らかくなって、皆さんに喜んでもらえるよう、ガンバがJ2からはい上がっていけるようにということだけを、日々考えてやらせてもらいました。そんな中で、皆さんとともに取れたタイトルは人生において最大の喜びであり、最大の誇りです」
バイエルン・ミュンヘンへの期限付き移籍が決まった2011年6月の会見で「バロンドールを目指したい」と大言壮語した当時19歳の少年は、ブンデスリーガで人生最初の挫折を味わった。世界的なタレントが集うバイエルンのみならず、ホッフェンハイムでも思うように出番を得ることなく、失意の宇佐美が選んだのは愛する古巣での出直しだった。
J2で通用せえへんようなら、もうサッカーは辞める……。悲壮感にも似た覚悟を持って2年ぶりにG大阪へと戻って来た宇佐美を迎えたのは、かつて宇佐美自身がそうだったサポーターたちだ。
「またここから這い上がれ貴史!」
復帰初日の練習で、サポーターが掲げた横断幕のメッセージを目にした背番号39は「あれだけ盛大に送り出してもらって2年で帰ってくるのは申し訳ない気もしますけれど、またプレーで喜んでもらいたい」と語った。
復帰初戦となった13年7月20日のヴィッセル神戸戦(3−2)では自身にとってプロ生活で初の1試合2得点をたたき出し、チームを勝利に導いた和製エースは試合後のヒーローインタビューで「ガンバで一時代を築きたい」と力強く宣言。その言葉通り、自らの両足で「宇佐美の時代」を切り開いていく。
生え抜きが担った「最強エース」の座
そんな「神話」以上に価値を持つのがエースとして手にしてきたタイトルの数だ。西野朗元監督が確立したG大阪の攻撃サッカーで、長らくエースの肩書きを背負い続けて来たのは、強烈な個の力を持つブラジル人アタッカーたち。05年のクラブ初戴冠を支えたアラウージョや07年のヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)制覇に貢献したマグノ・アウベス、そしてクラブ史上最大の栄冠であるAFCアジアチャンピオンズリーグで輝いたルーカスら、セレソン(ブラジル代表)クラスのタレントがエースとして、クラブ史に名を刻みこんできたが、宇佐美は彼らを上回る「最強エース」に成長した。
13年のJ2リーグ制覇に始まり、14年は3冠獲得に貢献。15年も国内の主要3大会で決勝進出への原動力となり、天皇杯で連覇に導いた。
そのキック精度と同様に、自らが話す内容にも敏感な宇佐美は、過度に自身の実績を称賛しようとしない男だが、名古屋戦を翌日に控えた囲み取材で、自らの位置づけにはキッパリと胸を張る。
「チームの心臓という意味では長らくヤット(遠藤保仁)さんが担って来ましたけれど、エースと言うところはブラジル人選手が今まで背負ってきましたからね。代わる代わる、いろいろなブラジル人選手が一番の点取り屋。点を取らないとアカンのはお前やぞ、というところをブラジル人が背負ってきましたけど、そこをガンバの生え抜きである自分が背負えたのはすごく大きな意味があると思っています」