ローマ史上最高のカピターノ「トッティ」 最後に迫られた重大な決断
トリノ戦で見せた離れ業
20日に行われたトリノ戦で、試合終盤での交代から逆転劇の立役者となったトッティ 【Getty Images】
シーズンが残り5試合となったこの時点でセリエA3位につけていたローマだが、過去2試合はいずれも引き分けと調子は下降気味。このままこの試合を落とせば4位インテルとの勝ち点差は1まで縮まってしまう。そうなればマスコミやサポーターからのプレッシャーは否応なく高まり、チームの内外が緊迫した空気に包まれることは避けられなかった。終盤戦の大事な時期に悪い流れに陥ってしまえば、ほぼ手中に収めていた虎の子の来季チャンピオンズリーグ(CL)出場権(3位以内=1〜2位は本戦、3位はプレーオフに出場)も、その手から逃げていきかねない。
しかし、あと半年で40歳の大台に届こうというこの偉大なキャプテンは、ピッチに立ってからたった3分足らずでチームを絶体絶命の淵から救い出すという離れ業を演じて見せる。交代出場からわずか23秒後、ミラレム・ピャニッチが右サイドから蹴ったFKに合わせてファーサイドに飛び込み、右足アウトサイドに合わせて2−2の同点ゴールを決めると、その興奮もさめやらぬ後半44分、今度は相手のハンドで得たPKを冷静にゴール左隅に蹴り込み、ローマに逆転勝利をもたらした。スタディオ・オリンピコを埋めたロマニスタ(ローマサポーター)たちが狂乱の渦に巻き込まれたことは言うまでもないだろう。
隠せないここ数年での衰え
ここ3年間は故障で戦列を離れる頻度も高まって、実働期間はシーズンの半分強というところ。今シーズンも太腿の肉離れで前半戦をすべて棒に振り、1月に戦列復帰してからも出場機会のほとんどは試合終盤になっての交代出場に留まっていた。
2月半ばには、毎試合ベンチを暖めるという状況に耐えきれず、TVインタビューで「監督の選択は尊重するけれど、僕がこれまでローマに果たしてきた貢献にもう少しのリスペクトを求めたい。このままキャリアを終えるのはあまりに惨めだ」と明らかに監督批判と受け取れるコメントを発し、大きな物議を醸すという出来事もあった。
しかしそれでもこの日のトッティは、ひとたびピッチに立てば決定的な違いを作り出す力が今なお十分に残っていることを、自らのプレーによって改めて証明してみせた。
トッティの長いキャリアにもついに終わりの時が近づいてきていることは、もはや誰の目にも明らかだ。しかしだからこそ、その活躍を少しでも多く目に焼き付けたいという思いを、ロマニスタだけでなくサッカーを愛する多くの人々が胸に抱いているはずだ。翌日の新聞各紙を埋めた「トッティ、君は伝説だ」「3分間で2ゴール、トッティに狂喜乱舞」「トッティこそがローマ」といった大仰な見出しは、そんなサポーター心理を強く代弁するものだった。
ロマニスタとして生まれ育った幼少期
レギュラーの座をつかんだ95−96シーズンのトッティ(左) 【写真:ロイター/アフロ】
1976年9月27日、ローマ中心街の庶民的な街区に生まれ、物心がつく前から当たり前のようにロマニスタとして育ったトッティは小学生の時からすでに、サッカーボールを持たせれば神童の誉れ高い天才少年だった。13歳でローマの育成部門にスカウトされ、憧れのジャッロロッソ(ローマの愛称)のシャツに袖を通すと、わずか16歳で早くもトップチームにデビューする。
将来を約束されたクラブ生え抜きのビッグタレントという特別な地位を謳歌(おうか)しながら、準レギュラーというプレッシャーの少ない立場でプロフットボーラーとしての基盤を築いた幸運なティーンエージャー時代を経て、レギュラーの座をつかんだのは95−96シーズン。その2年後には、年上のチームメートたちによって背番号10を授けられ(それまでは20番や17番だった)、同時にキャプテンマークも託された。この時わずか21歳だったトッティは、それから現在まで18年間にも渡って、10番を背負った「カピターノ」(主将)として不動の地位を守り続けることになる。
この97−98シーズンに就任したチェコ人監督ズデネク・ゼーマンは、それまで古典的な10番、すなわちトップ下の攻撃的MFとしてプレーしてきたトッティを、4−3−3システムの左サイドアタッカーとして起用した。ゲームメークやラストパスといった典型的な「10番」の枠には収まらない、よりFW的なプレースタイルを持つトッティは、この新しいポジションでアタッカーとしての資質を大きく開花させることになる。それまでの5シーズン合わせてわずか11ゴールに留まっていたものが、続く2シーズンで計25ゴール。個人成績に話を限れば、ゼーマンの下でプレーしたこの2年間はキャリアの前半におけるひとつのピークと言っても良かった。