大久保嘉人、川崎でのゴール量産の秘密 前人未到の3シーズン連続J1得点王

江藤高志

2013年に加入した川崎の救世主

川崎は2013年、勝てばリーグ優勝という横浜FMを下しACL出場権を獲得。大久保がいたからこその高成績だった 【写真:アフロスポーツ】

 ゴールを量産してきた大久保嘉人のゴールに対する貪欲さを示すエピソードがあるとすれば、10年ぶりに記録したハットトリックの試合が適切だろう。それは、2014年のこと。試合中に看板を蹴って2試合の出場停止を受けた大久保の復帰戦となったJ1第25節の大宮アルディージャ戦、川崎フロンターレのストライカーは怒とうの3得点を挙げた。その時、大久保は足の指を骨折していたという。

「あの痛みは折れてたね」と大久保。選手生命を削るようなことまでして、なぜ試合に出場し続けるのか。それはチームに迷惑がかかるからだ。

「オレが点を取らないと、このチームは勝てないでしょう」

 聞く人によっては傲慢(ごうまん)にも聞こえるこの言葉はしかし、川崎というチームの現実を言い表している。大久保が加入する前の12年、川崎はポゼッションで相手を上回る一方、相手がゴール前に作る守備ブロックを崩せずにいた。川崎の攻撃を防ぐには、引いて守ればいいのだという相手チームの対策に苦しめられた。

 川崎が結果を出し始めたのは、大久保加入後の13年からだ。小林悠とのコンビが冴えに冴えたこのシーズン、川崎はリーグ最終節に向けて尻上がりに順位を上げた。勝てばリーグ優勝という横浜FMをホームに迎え、シーズン最終戦に1−0で勝利。この結果、3位に順位を上げてシーズンを終え、ACL(AFCチャンピオンズリーグ)の出場権を獲得する。分厚い相手の壁を、ゴールで仕上げられる大久保がいたからこその成績だった。

チームメートに慕われる人間性

大久保はチームメートから慕われる人間性の持ち主であり、丁寧なファン対応でもサポーターの心をつかんだ 【写真:築田純/アフロスポーツ】

 ありえないスピードでゴールを量産してきた。川崎に移籍してきた時、大久保のJ1での総得点は10シーズンで89点。その大久保が、川崎での3シーズンで67ゴールを量産。中山雅史と佐藤寿人のJ1通算157得点にあと1点のところまで肉薄するとは考えようもないことだった。多くの人々は、大久保という選手の能力に疑問符をつけていた。

 たとえボールコントロールに優れ、高い技術を持っていたとしても、国見仕込みの運動量があろうとも、それはゴールを奪う技術とは別次元のものと思われていた。神戸での最後のシーズンとなった12年の年間得点数はわずかに4。大久保の能力に疑問符をつける人がいたとして、その人を責めることはできない。大久保の能力は、懐疑という闇に包まれていた。

 そんな大久保は13年J1第2節の大分戦で移籍後初ゴールを決めると、順調にゴールを積み重ねた。チームになじむのにも、そう時間はかからなかった。ピッチ内での気性の荒さとはうって変わり、ピッチ外では懐の深さを見せてチームメートから慕われる一方、丁寧なファン対応でサポーターの心をがっちりとつかんだ。

 人から頼まれたサインを大久保に依頼したことがあるという谷口彰悟は、そのマメさに感心する。「『良いよ、良いよ!』ってすぐにやってくれます」。誰とでも分け隔てなく接するそうしたきめ細やかなファン対応の理由を、谷口が大久保に尋ねたことがあったという。

「いつだったか『そういうのをやらなかったら、バチが当たりそう(笑)』と言っていました」と谷口。目つきが変わるプレー中とのそうした落差もチームメートから慕われる理由だ。だから、ここぞという場面では、大久保にボールが集まることが多い。

 13年5月、大久保は父を亡くした。その父のためにと、自らにプレッシャーをかけ、追いすがるライバルたちの足音におびえながら、きっちりと得点王を手にした。その時期、チーム内に大久保にゴールを取らせたいという心情が広がっていたのは言うまでもない。

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著者プロフィール

1972年、大分県中津市生まれ。工学院大学大学院中退。99年コパ・アメリカ観戦を機にサッカーライターに転身。J2大分を足がかりに2001年から川崎の取材を開始。04年より番記者に。それまでの取材経験を元に15年よりウエブマガジン「川崎フットボールアディクト」を開設し、編集長として取材活動を続けている。

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