栄光と分断の街、モスタルにて ハリルホジッチの足跡をめぐる旅<前編>

宇都宮徹壱

ベレジュに代わって台頭したズリニスキ

ベレジュのライバル、ズリニスキ・モスタル。クロアチア代表のルカ・モドリッチも、かつてこのクラブでプレーしている 【宇都宮徹壱】

 旧ユーゴ時代より、ジェレズニチャル・サラエボやFKサラエボと並ぶ、ボスニア・ヘルツェゴビナの強豪として知られたベレジュ・モスタル。ボスニア戦争終結から2年後の97年からは、ボシュニャク系のクラブによる国内リーグに参加して、現在に至っている。ここで、旧ユーゴから分離・独立後の国内リーグの沿革について触れておきたい。

 当初、民族ごとに分かれて運営されていたボスニアの国内リーグは、00年にボシュニャク系のリーグにクロアチア系のクラブが加わり『プレミィエル・リーガ』と名を改める。さらに02年からは、スルプスカ共和国内で独自のリーグ戦を行っていたセルビア系のクラブも合流。ここにようやく、3民族のクラブがひとつのリーグを戦う、本来あるべき姿を取り戻すこととなった。しかしこの間、ベレジュはタイトルからは見放されたまま。代わって台頭してきたのが、同じモスタルを本拠とするHSKズリニスキ・モスタルだ。

 ズリニスキの本拠地、2万5000人収容のビイェリ・ブリイェグ・スタジアム(国内で2番目に大きい)を訪れてみた。ゲートの門に掲げられたエンブレムには、「HRVATSKI SPORTSKI KLUB(クロアチア・スポーツ・クラブ)」の文字と「1905」という設立年、そして『シャホヴニツァ』と呼ばれる赤と白のチェック模様が描かれている。ベレジュよりも長い歴史を持つ、このクロアチア系のクラブは、プレミィエル・リーガ参戦後の15シーズンで3回のリーグ優勝(05、09、14年)と1回のカップ戦優勝(08年)を果たしている。たまたまクラブハウスにいた古株のスタッフに声をかけると、彼は古色蒼然とした写真が飾ってある部屋にわれわれを案内してくれた。

「ご覧のとおり、ズリニスキは110年という古い歴史を持つクラブだ。チェコやハンガリーに留学していた、モスタル出身のクロアチア人によってクラブは作られ、クロアチア独立国(編注:第二次世界大戦中におけるナチス・ドイツによるかいらい政府)のリーグにも参加していた。ところがチトーの時代(=社会主義時代)になると、ズリニスキは『民族的すぎる』という理由で、リーグに参加できないばかりか一方的に活動停止を命じられたんだよ。われわれは弾圧の恐怖の中、ひっそりとカップ戦を続けるしかなかった」

 ちなみに、彼らが現在使用しているビイェリ・ブリイェグ・スタジアムは、旧ユーゴ時代はベレジュが使用しており、ハリルホジッチもここのピッチでゴールを量産していた(ベレジュ時代、207試合に出場して103ゴールを記録)。しかしボスニア戦争後、ビイェリ・ブリイェグはクロアチア人が多数派を占める西モスタルに取り残され、復活したズリニスキのホームスタジアムとなる。ベレジュは仕方なく、ボシュニャク人が多く暮らす東モスタルにヴラプチチ・スタジアムを新たに整備したものの(95年)、キャパは7000人しか確保できず手狭感は否めない。「スタジアムを奪われた」と恨むベレジュと、「ずっと弾圧されていた」と主張するズリニスキ。両者によるモスタル・ダービーが、国内で最も白熱するのも当然の話である。

ハリルホジッチのカフェを訪ねて

かつてヴァハが経営していた西モスタルのカフェはラウンジ・バーになっていた。置いてある新聞はクロアチアのもの 【宇都宮徹壱】

 ボスニアという国が、ボシュニャク人とクロアチア人によるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦、そしてセルビア人によるスルプスカ共和国というふたつの構成体からなる連邦国家であることは、先に述べた。構図としては、ボシュニャク人とクロアチア人が同盟を結んで、セルビア人と対抗していたように見えるかもしれない。しかし先の戦争中は、クロアチア勢力も『ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国』なる独立国家を一時的に打ち立て(91〜94年)、モスタルを名目上の首都として(実際の首都はグルデ)ボシュニャク勢力と争っていた時期があったのである(スタリ・モスタルを破壊したのもクロアチア系の民兵だった)。

 結果として戦時下のモスタルは、ネレトヴァ川を挟んで西側はクロアチア勢力、東側はボシュニャク勢力に分断されてしまう。その西側に自宅とカフェを構えていたのが、すでに現役生活を終えて不惑を迎えたばかりのハリルホジッチであった。ヴァハ自身はボシュニャク人だったが、彼の妻はクロアチア人。そもそも旧ユーゴ時代は、異なる民族が共存することが当たり前だったため、まさか隣人たるクロアチア人の民兵から焼き討ちを受けるとは夢にも思わなかったことだろう。

 戦争終結から20年が経過し、今ではボシュニャク人もクロアチア人も自由にネレトヴァ川の西と東を往来している。だが、先の戦争で生まれた民族間の心の溝が、完全に埋まっているようにも思えない。西モスタルで、ドライバーのニコラがカフェでたむろしていた男たちに「ズリニスキのスタジアムはどこにあるんだい?」と尋ねたとき、「お前、ムスリムか?」と聞かれたという。どうやらズリニスキのサポーターだったようだ。「オレはセルビア人だよ」とニコラが返すと、彼らはとたんに表情を緩めて「それなら、お前は仲間だ」と道を教えてくれたという。クロアチア人とセルビア人は、かつては不倶戴天(ふぐたいてん)の敵というイメージがあったが、ここモスタルではボシュニャク人とクロアチア人との間で、今でも埋めがたい不信感が横たわっているように感じる。

 ニコラの粘り強い聞き込みの甲斐あって、西モスタルを30分ほど歩きまわった末に、ようやくヴァハのカフェ跡を見つけることができた。今はオーナーも変わり、黒を基調としたラウンジ・バーとなっている。置いてある新聞も、メニューにあるビールも、いずれもクロアチアのものだ。何だか、ザグレブ(クロアチアの首都)にいるような気分に陥る。10代の若いウェイトレスに、この店がいつできたのかを聞いてみた。「4年前かしら。その前のこと? 知らないわ」とそっけない。もっとも、戦後生まれの彼女がヴァハのことを知らないのも無理もない話だ。

 ベレジュのクラブダイレクター、タノビッチによると「ヴァハはこっちに帰ってくるときには、いつもクラブハウスに顔を出してくれるよ」と語っていた。だが別の情報によれば、ハリルホジッチは戦後、自宅とカフェがあった西モスタルに足を踏み入れることはほとんどなかったとも聞く。現役引退後はモスタルに戻り、古巣であるベレジュのスポーツ・ディレクターを引き受けたものの、サッカーからは少し距離を置いて静かな生活を続けていたヴァハ。しかし急速に悪化する民族対立が、結果として彼を再びフットボールの世界に引きこむことになったのは、歴史の皮肉としか言いようがない。

<つづく。文中敬称略>

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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