山田大記がW杯王者の国へと渡った理由 獲得喜ぶカールスルーエで早くも得た信頼
120年の伝統あるカールスルーエ
カールスルーエの祝賀会場では、青空色のキャンバスに大きな白い文字でこう記してあった。「一クラブ以上の存在」。お祝いムードなのには理由がある。カールスルーエは設立120周年を迎えたのだ。そして今、復活の途上にあることを祝っている。
1894年の設立以降、カールスルーエは先達とともに「ドイツのサッカー史に足跡を残してきた」。インゴ・ヴェレンロイター会長は、誇りを込めてそう語る。このクラブは「ドイツサッカー界で最も偉大な伝統を持つクラブの一つ」であるが、良い時期ばかり続いたわけではない。
63年のブンデスリーガ発足メンバーの一員ではあるが、カールスルーエは浮き沈みを繰り返してきた。安定した航路を取ることができたのは、ビンフリート・シェーファー監督の下での航海だけだった。シェーファー監督が率いた当時は順位表の上部3分の1を定位置とし、93年にはUEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)出場権も手にした。その欧州の舞台2回戦でのバレンシア(スペイン)との対戦は、今でもクラブの歴史のハイライトの一つとみられている。
11年間ブンデスリーガや他の欧州のカップ戦で戦った後、クラブは地域リーグにまで落ちた。破産の危機に怯え、10年近くアップダウンを繰り返したのだ。式典に「闘争と痛み、勝利の120年」との副題がつけられたように、「長くいろいろなことが起こったクラブの歴史だった」とヴェレンロイター会長は語った。
スポーツディレクター(SD)のイェンズ・トット氏は、クラブを語るにあたり多くの説明をした。カールスルーエは2部リーグで安定した成績を残すようになっており、昨季は昇格組としてサプライズを提供、今季も良いパフォーマンスをしたいと思っている等々……。そして、その中で山田大記が主要な役割を担うだろう、と話したのだ。
山田の驚くほど高い順応性
山田のようなユーティリティー性のある攻撃的な選手を彼は探していたし、この補強を喜ばない監督はいないだろう。山田自身も特別な助けを借りることなく、ドイツでの生活にすぐさま馴染んだ。
「移籍の準備のために、我々は通訳を用意しなければならなかった。毎日クラブハウスに来られて、毎回の練習と試合に帯同でき、さらにいつでも山田を助けられるような通訳を、だ」とトッドSDは振り返る。だが、「通訳は不要だった」という。
「彼は戦術的指示をすべて理解するし、部屋の中でも他の普通の選手と同じように座っている。何かあれば英語で聞くし、周りの選手が英語に訳してくれるんだ。チームへと非常に早く溶け込んだし、初日からチームの仲間とコミュニケーションを取っていた。予想以上のことだったよ」
山田はカールスルーエからのツイッターでのつぶやきを、ドイツ語で発信した。フリーランスのライター、サンドラ・ヴァルツは熱っぽく話す。
「まさにお手本! フレンドリーな日本人だというイメージが、私たちの中で固まった。山田はとてもオープンで、とてもフレンドリーだし感じが良い。韓国人のチームメイトのパク・ジュンビンだけではなく、MFのドミニク・パイツやGKのディルク・オルリスハウゼンとも仲が良い。山田にとって一番の通訳はラインホルト・ヤボで、チームにとてもうまく馴染んでいる」
「すごいことだった」と話したのは、『KA−NEW.DE』でスポーツデスクを束ねるカロリン・ライゼンノイアーだ。「短い準備期間のうちに山田はレギュラーポジションを奪い、エンリコ・ヴァレンティーニを越えてしまった。セルチュク・アリバスも、山田の後ろに回らなければならなかった」と、合流が遅れながらの序列の急上昇ぶりに驚きを隠せない。
トッドSDも「彼は素晴らしい個性の持ち主で、初日からすべてを出していた」と合流時の様子を語る。この25歳は「完璧に両足を使え、技術が高く、試合とチームメートの動きを読む非常に良い目を持っている。ゴールに飢えていて、準備も素晴らしく、すでにプロのリーグを経験している」のだと言う。さらには若くして日本でキャプテンを務めており、「彼を獲得できたことを、我々はうれしく思っている」と元プロ選手のSDに笑みを浮かべさせた。
※1998−99に永井雄一郎が期限付きで留学していたが、セカンドチームに所属