ソチ敗れても 湯浅、戦い続けて目指す夢=アルペンスキー

高野祐太

苦悩のなかで、強くなった信念

ケガの影響もあり、五輪後初戦のW杯第10戦は28位。それでも次週の最終戦へ駒を進めた 【写真:アフロ】

 一方で、それだけ激しくトリノ五輪の滑りからの脱却を語ったのは、信念の強さや反骨精神の表れでもあった。恐らくは、“自分の武器”の裏返しとも言える“弱点”との折り合いをどう付けるのか、考えは常にせめぎ合っている。トリノからソチまでの8年間、そこには深い苦悩があったかもしれない。そして、今回のソチで語った冒頭のような発言をみていく限り、現時点では、ここぞで攻める直線的なターンを進化させることこそがやはり自分の流儀なのだ、という認識をより強固にしているように感じられる。
「攻めるのは本当に大切なことだし、かなり速い爆発的な動きで攻めるということは絶対に誰にもできないと思っています。みんなが3速(のスピード)で滑っている勝負どころで、僕だけあえて1速で滑るという度胸と動きの良さが自分の武器になる。この斜面をそうやって滑ってくるのかと、あっと驚かせるような滑りをしたいし、それはできると思っています」
 5年前に語っていたこの決意じみた言葉が、揺らぐようなフシがまったくないのだ。こうした湯浅の流儀を支える考え方がある。

「アルペンスキーに唯一の正しいやり方なんてないと思っているんです。アルペンスキーで面白いのが、一人一人全然滑りが違うこと。共通の技術的なベースはあるけど、あとは全部個性なんです。個性がいろいろあって、いろんな選手が勝つ。自分がやってきたことが間違っているかどうかなんて誰にも言えない訳で、自分のやりたいことを表現できたときの強さはきっと計り知れないものだと思うし、そうであってほしい。個性を徹底的に磨けば、必ず世界にとって脅威になる滑りができると思います」

「世界一」の夢を抱き、4年後の平昌へ

 湯浅はスキーに対して一途な男だ。思い詰めるほどの覚悟を胸に抱いている。それがソチ五輪との向き合い方にも表れているのだが、その発端となる思いは9歳のころに早くも宿していたという。
 まだスキーを始めたばかりだった少年の日の湯浅が、その年齢には不釣り合いとも思える大きな夢をふと思い定めた。

「アルペンで世界一になる」

 最初は子供特有の無邪気な夢だったのだろうか。だが、それは単なる思い付きの突飛なものではなく、20年以上経った今でも少しも揺らいでいない。幾度となくケガに見舞われても、4年前のバンクーバー五輪落選によって引退の危機に陥っても(スポンサーに対し責任を取るため引退を示唆したが、多くの反対の声に応えて踏みとどまった)。
「いろいろなことがあっても世界一になりたいという気持ちは変わらなかった。それは自分の人生において一番大きなものだから。9歳のころと何一つ変わらないという思いで今まで生きてきたし、多分これからもそうなんでしょうね」

 湯浅は以前、自分が不器用で遅咲きだと語っていた。自分には“弱点”を軽やかに克服することができない、泥臭く付き合っていくしかない、という自覚を持っていることを意味する。だから、自分らしい攻撃的な滑りを突き詰めるためには時間が必要なのであり、まだバンクーバー五輪さえ迎えていない5年前の夏、26歳の時点で「34歳の“ソチの次の五輪(=平昌五輪)”まで現役を続ける」ことを決めていたのだ。
「結局、自分の人生で決めたことはやり通さなくてはいけなくて、勝つと決めたら必ず勝ちたい。そのために自分が必ず勝てる方程式を自分の中で見つけなければいけない」という思いがある。

「未熟だった」と唇をかんだソチの滑りは、湯浅が表現したい滑りの完成形ではなかった。完成形に近づくのは4年後。湯浅の世界一を求める道は、18年の平昌へと続いていく。

<了>

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著者プロフィール

1969年北海道生まれ。業界紙記者などを経てフリーライター。ノンジャンルのテーマに当たっている。スポーツでは陸上競技やテニスなど一般スポーツを中心に取材し、五輪は北京大会から。著書に、『カーリングガールズ―2010年バンクーバーへ、新生チーム青森の第一歩―』(エムジーコーポレーション)、『〈10秒00の壁〉を破れ!陸上男子100m 若きアスリートたちの挑戦(世の中への扉)』(講談社)。

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