吉田知那美「誇りを持って前に進む」 カーリング女子の躍進に貢献した新鋭

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急きょ多くの出場機会が訪れた吉田。22歳の彼女が経験したソチ五輪とは 【写真:青木紘二/アフロスポーツ】

 ソチ五輪でカーリング日本女子チームの躍進に心奪われた国民も多かったのではないだろうか。最終的には4勝5敗の5位に終わったが、史上初となる準決勝進出に手が届きそうな位置にまで来たことは、チーム結成から3年ということを考えれば称賛に値する。

 そんなチームにあって、代役からチャンスをつかんだ選手がいる。22歳の吉田知那美(北海道銀行)だ。大会前はリザーブだったが、セカンドで同い年の小野寺佳歩(中京大)がインフルエンザで急きょ離脱。慣れないセカンドで出場しながら、試合を重ねるごとに適応し、自分のポジションにしてみせた。「技術のなさや心の弱さを認められた良い大会でした」と、自身を厳しく律する新鋭は、時折あどけない笑顔を見せながら、初めての五輪を振り返ってくれた。

「私がもう少ししっかりしていれば」

――初めての五輪は吉田選手にとってどのような舞台でしたか?

 終わった直後は悔しくて、もっとできたのではないかという気持ちの方が強い五輪でした。

――5位という結果に関してはご自身でどのようにお考えですか?

 それこそ私が出場した試合でも、負けなくていいところで負けてしまったりだとか、私がもう少ししっかりやっていれば、もっと良い結果になった試合もありました。でも、日本から来て、ずっと応援してくれていた人たちが「おめでとう」と言葉を掛けてくれたり、「ありがとう」と言ってくれた。そういう人たちの言葉を聞いて、初めて5位という成績はすごいものなんだと、ようやく受け止められるようになってきました。

――チームの中では何位くらいという予想はしていたのでしょうか?

 私たち若手は五輪が初めてだったので、本当に白星、黒星ともにいくつくらいかも分からない状態で挑んだんですけど、小笠原(歩)さんが「2勝できるかできないかだよ、このレベルでは」と言っていたので、すごくその言葉に奮い立たされました。「このままなら今までの五輪と何も変わらない成績で終わってしまう」と、危機感を持って臨むことはできましたね。

「絶対に言い訳はしたくなかった」

――慣れないセカンドでの出場でした。やはり不安の方が大きかった?

 絶対に言い訳はしたくないと思いました。リザーブという立場でしたが、誰がけがしても、誰が病気になっても、誰が不調でも出られるように準備はしてきましたし。自分の言葉に責任を持ってそういう不安だとか心配だとかを考えないようにやろうとずっと思っていました。

――試合を重ねていく中で、セカンドにもどんどん慣れていくように見えました。ご自身ではどう感じでいましたか?

 本当にチームのみんなに助けられ、周りの人たちに「大丈夫」と声を掛けてもらって、ちょっとずつ調子を取り戻すことができたと思っています。1試合目(韓国戦)であまりよろしくないプレーをしてしまって(笑)。自分でも最低だと思う試合を、まさか五輪の舞台でやってしまうとは思わなかったんですけど、逆に考えると五輪の初戦という大舞台でシーズンで一番悪いゲームをしてしまえば、これ以下はないだろうと思って(笑)。次はもう少しやれることをやろうと思って挑めたので良かったです。

――ショットの成功率も初戦以降どんどん上がっていって、最後の方はすごく良くなりました

 セカンドとして求められるものだったりとか、やらなければいけないことが1試合目で分かったんです。あとは五輪の舞台でどうすれば集中できるか、どういう気持ちで氷に上がればいつもの自分のプレーができるのかという感覚がつかめたので、その後の試合はすごく楽しかったです(笑)。

――大会中にターニングポイントになった出来事や試合はありましたか?

(3戦目の)ロシア戦ですね。ロシア戦が始まる前のミーティングでミキ・フジ・ロイコーチに「デンマーク戦は良かったけど、セカンドとしての知那美にはもっと良いショットが欲しい、もっと良いパーセンテージがほしい」と言われたんです。「よし、ここでやってやろう」と思ったのがこのロシア戦でした。

――小野寺さんとは大会中にいろいろと話はされました?

 彼女がおそらく一番つらく、悔しい思いをしていたと思うんです。その中でも私が試合に出るときは「大丈夫だから、チナならできるから」という言葉をいつも掛けてくれて……。その言葉に助けられて氷に上がることができましたね。

語学留学がいつ間にかカーリング留学に

――チーム結成から3年が経ちます。吉田選手はどういう経緯でこのチームに加入されたのですか?

 私はずっと高校時代までジュニアの選手としてやってきたんですけど、成績がそぐわなく……(苦笑)。ライバルチームがいて、そちらは同い年で、高校が終わるぐらいのときに大学の方から、「そのチームで大学に来てほしい」と声を掛けてもらっていました。でも、私たちのチームは成績が良くないこともあり、解散せざるを得ない状態になってしまったんです。その後、カナダに留学してフジコーチの家にホームステイをさせてもらっていたんですが、そのときに「本当はカーリングがしたい」とフジコーチに話したら、そこから語学留学がカーリング留学に変わり……(笑)。

――そもそも語学留学だったんですね(笑)

 はい(笑)。そこからずっとカーリングをするようになり、そうして過ごしているうちに、小笠原さんの方から「チームを作るんだけど、一緒にやらないか」というお話をいただいたんです。私がジュニアのときに、小笠原さんから「私と一緒にやるときまでに強くなってなさいよ」と、声を掛けてくださったときがあって、小笠原さんは冗談で言ったみたいなんですけど、私がそれを真に受けてしまって(笑)。小笠原さんも人づてに「知那美ちゃんがその言葉を信じてまだカーリングやっているよ」というのを聞いたみたいで、それで声を掛けてくれたんです。私がこのチームに入ることができたのは偶然でもありました。

――留学先でもお世話になっていたフジコーチは、吉田選手にとってどのような存在ですか?

 私のおじいちゃんでもあり(笑)、コーチという存在でもあり、本当に2つの気持ちがあります。おじいちゃんとして甘える自分もいて、本当にコーチとして尊敬していて、もうこの人の言うことなら「はい」と言うしかないという気持ちです。

――甘えられるぐらい優しいんですか?

 そうですね。カーリングのことに関しては、勝つためのカーリングをやっているので本当に厳しいんですけど、氷を離れた部分ではすごく優しく本当におじいちゃんのような存在です。

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