ヤクルト投手陣の再建託された高津臣吾の挑戦

菊田康彦

守護神復帰、投手陣再建へ決意新たにする高津投手コーチ 【ヤクルト球団】

 あの時と同じ眼だ──。
 来シーズンから投手コーチとして東京ヤクルトに復帰することになった、かつての「燕の守護神」高津臣吾。その就任会見を見て、もう10年近く前のことを思い出していた。

 あれは2004年1月26日のことだった。それまで13年間在籍したヤクルトからFA宣言し、メジャーリーグのシカゴ・ホワイトソックスとの契約に合意したばかりの高津は、詰め掛けた大勢の報道陣の前で報告会見を開いていた。その席で見せた、強い決意と希望に満ちた眼。10年近い歳月を経て臨んだヤクルトのコーチ就任会見でも、その時と同じ眼をしていたのだ。

栄光を手にしながら続けた終わらない“旅”

 1991年に亜細亜大からドラフト3位でヤクルトに入団した高津が抑え投手に定着したのは、プロ3年目の93年から。この年、野村克也監督の下で15年ぶりの日本一を決めた胴上げ投手が高津だった。その後も95年、97年、さらに若松勉監督になっていた2001年と、日本シリーズを計4度制した黄金期のヤクルトにあって、日本一のマウンドには常に背番号22が立っていた。だが、そんな「燕の守護神」も、日本プロ野球史上初の通算250セーブを達成し、名球会入りを果たした03年のシーズン終了後にFAを宣言。そこから野球人生の第2章が始まった。

 メジャー1年目は中継ぎでのスタートながら、4度目の登板から失点ゼロを24試合続けて「ミスター・ゼロ」の異名を取った。6月には抑えに抜てきされ、この年チームトップの19セーブをマーク。本拠地のUSセルラー・フィールドでは、9回のマウンドに高津が上がるとゴーン、ゴーンとドラの音が響き、「IT’S SHINGO TIME!(さあ、臣吾の時間だ!)」の文字がスコアボードに大映しになるのが慣わしとなった。

 翌05年はシーズン途中でニューヨーク・メッツに移籍し、06年には古田敦也兼任監督が誕生したヤクルトに復帰。この年の10月7日には日米通算300セーブも達成した。ところが翌07年のシーズン最終戦翌日に、突然の戦力外通告。再び高津の“旅”が始まった。

 08年は春先にシカゴ・カブス、そして古巣のホワイトソックスでメジャー復帰を試みるもかなわず、6月には韓国へ飛んでウリ・ヒーローズでプレー。09年にはサンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約を結んだものの、メジャー昇格はならなかった。

 それでも“旅”は終わらない。10年は台湾の興農ブルズに入団し、史上初めて日米韓台でセーブをマーク。翌11年は日本に戻り、BCリーグ(独立リーグ)の新潟アルビレックスBCでリーグ最多の16セーブを挙げると、12年にはそのまま投手兼任監督に就任した。しかし、その年の8月、ついに引退を表明。9月22日の引退試合では、試合後の「終球式」でヤクルト時代の“女房役”の古田を相手に最後の1球を投げ込み、馴染み深い背番号と同じ「22」年の現役生活に幕を下ろした。

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著者プロフィール

静岡県出身。地方公務員、英会話講師などを経てライターに。メジャーリーグに精通し、2004〜08年はスカパー!MLB中継、16〜17年はスポナビライブMLBに出演。30年を超えるスワローズ・ウォッチャーでもある。著書に『燕軍戦記 スワローズ、14年ぶり優勝への軌跡』(カンゼン)。編集協力に『石川雅規のピッチングバイブル』(ベースボール・マガジン社)、『東京ヤクルトスワローズ語録集 燕之書』(セブン&アイ出版)。

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