日本陸上界の礎となった九州一周駅伝=終わるにはあまりに惜しい功績の数々

折山淑美

箱根駅伝生みの親も参加

数々の名ランナーを生み出した九州一周駅伝が今年、幕を閉じる。写真は前回大会の最終日でアンカーを務めた福岡県の今井正人 【写真は共同】

 2011年の第60回大会から『グランツール九州』と名称を変えて行われていた九州一周駅伝が、今年10月27日から11月3日までのレースで、62回にわたる歴史に幕を閉じることになった。

 スポーツの力で、九州に活力と未来への希望をもたらすとともに、世界で戦える長距離選手を育てようという意図で、1952年に初開催された九州一周駅伝。第1回大会は福岡県と山口県、宮崎県、長崎県、熊本県、佐賀県、大分県、鹿児島県の8チームが参加し、長崎市をスタートして福岡市の西日本新聞本社前へゴールする70区間1083.28キロの長丁場で争われ、福岡県が62時間36分43秒で優勝した。
 その後は若干の区間変更もあって、走行距離1045〜1122キロで行われ、第25回大会から1060キロ弱の距離に落ち着き、区間数も18回大会からは72区間に固まった。第60回大会には8日間の51区間に変更され、距離も739.9キロと短縮された。

 箱根駅伝の生みの親でもあり、マラソンの父とも称される金栗四三氏も、第1回から第30回まで審判団役員として参加したこの大会。第6回以降は出場していなかった山口県が第22回大会から復帰し、第20回大会に出場した沖縄県が第24回大会から参加するようになって、9チームの戦いになった。さらに81年の第30回大会には、日本体育大と順天堂大でチームを組んだ関東大学連合がオープン参加(第56回大会にも関東学連選抜として参加)。第35、36、40回大会には広島県もオープン参加している。さらに、91年の40回大会ではインドとイラン、カタール、スリランカ、韓国、中国、日本による7カ国混合のアジア選抜も参加。92年バルセロナ五輪で森下広一を突き放して優勝した当時21歳のファン・ヨンジョ(韓国)が出場し、4日目と7日目の第1区で区間賞を獲得と、後の活躍を予感させる走りを見せていたのだ。

伊藤氏「みんながタフさを身につけていた」

 そんな歴史を持つ大会は、“長距離選手の育成”という意味でも大きな役割を果たし、長距離王国・九州が築かれる礎ともなった。第1回大会が行われた52年夏のヘルシンキ五輪に出場し、後に九州一周駅伝に参加した西田勝雄(マラソン)、内川義高(マラソン)、高橋進(3000メートル障害)、室矢芳隆(800メートル、1600メートルリレー)を含めれば、それ以来08年北京五輪を除いた五輪15大会(ボイコットした80年モスクワ五輪も含む)に28人、のべにすると39人にのぼる日本代表を送り込んだ。このうち、68年メキシコ五輪マラソンの君原健二と、92年バルセロナ五輪マラソンの森下がともに銀メダルを獲得している。
 さらに83年から開催されている世界選手権にも27人の選手を送り出し、91年東京大会で谷口浩美が金、99年セビリア大会で佐藤信之が銅メダルを獲得しているのだ。

 10日間のレース中、一人の選手が最多で4回走ることのできるこの大会では、身心ともにタフさが身につき、「マラソンには格好の練習の場」とも言われてきた。そんな駅伝に、高校を卒業したばかりの73年、第22回大会から山口県代表として17年連続出場し、59区間を走って大会最高の51回の区間賞(うち27回は区間新)を獲得している伊藤国光氏(現専修大監督)は、こう言う。
「僕の場合は夏の間はずっと走り込んでいて、九州一周駅伝は、12月の福岡国際マラソンに向けてのスピード練習と位置づけていました。1回目よりも2回目、2回目よりも3回目、4回目と速くなるように走っていたんです。だから、1回目はあまり体が動かなくても、3〜4回目になるとエンジンがかかってきて、最初からスパンと入っていける。そういう感覚で走っていたから、4回目も疲れを感じるというのはなかったですね」

 駅伝では、ランナーは5キロを13分台のペースで入る。それを経験しておけば、マラソンでの5キロ15分ペースは、ウォーミングアップなしでも楽にいける感覚だったという。
「箱根駅伝もそうだと思うけど、要は大会の使い方ですよね。僕は次につなげる考えでやっていた。その中で4回走る時は間をうまくつなぐために、気持ちや体の作り方を考えるんです。何を食べていいとか、どういう練習をやれば次にベストの状態でいけるかを学ぶ。その10日間だけではなく、僕らの場合は九州一周が終わった1週間後には実業団駅伝の地区予選があったし、その2週間後には福岡国際マラソンで、また2週間後には全日本実業団駅伝と続いていた。そういう環境の中でみんながタフさを身につけていたと思いますね」

チームにとってはテストの場

 チームにとっても、いろいろなテストができる場だったという。この大会は、監督やコーチが乗った観察車が選手の後につくスタイルになっている。そこで、選手の走り方や精神面をじっくり見ることで「この選手は後半こういう走りになる」とか「こういう区間に向いている」などと理解でき、チームの駅伝や選手の指導に生かすことができる。現役引退後には監督として参加した伊藤は言う。
「僕も観察車に乗っている時は選手によくウソを言っていて、まだ1キロ以上あって、区間記録が出ないと分かっていても、『あと1キロ。ここから2分55秒でいけば区間記録が出るぞ!』などと言って、選手を走らせていたんです。だから、今でも『監督にはだまされましたよ』とよく言われるけれど、そういう方法で、選手が単独走でも自分を追い込める能力を引き出したりしていました。でも、そうやってお互いに九州一周を楽しんでいたし、信頼関係を作ったりしていたんです」

 実業団チームとして戦うのではなく県対抗のため、チーム同士の垣根も低く、選手同士も仲間意識を持てた。そういう中でライバルたちの動静を知り、お互いに「どうやれば勝てるか」と、マラソンなど本当の勝負の場に向けての対策を考えあったりしていたという。

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著者プロフィール

1953年1月26日長野県生まれ。神奈川大学工学部卒業後、『週刊プレイボーイ』『月刊プレイボーイ』『Number』『Sportiva』ほかで活躍中の「アマチュアスポーツ」専門ライター。著書『誰よりも遠くへ―原田雅彦と男達の熱き闘い―』(集英社)『高橋尚子 金メダルへの絆』(構成/日本文芸社)『船木和喜をK点まで運んだ3つの風』(学習研究社)『眠らないウサギ―井上康生の柔道一直線!』(創美社)『末続慎吾×高野進--栄光への助走 日本人でも世界と戦える! 』(集英社)『泳げ!北島ッ 金メダルまでの軌跡』(太田出版)ほか多数。

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