佐藤有香コーチの挑戦とプロ人生=元世界女王、節目の五輪シーズンへ

辛仁夏

世界選手権での金 夢実現へ必要だったタイトル

世界選手権でのタイトル獲得後、プロに転向。スケーターとしての“夢”への道はハードなものだった 【写真:北村大樹/アフロスポーツ】

 佐藤コーチは1994年に千葉の幕張で行われた世界選手権の女子シングルを制した。世界女王になった直後、現役を引退してプロに転向。アイスショーの本場米国に拠点を移して、プロスケーターの第一歩を踏む。米国で生活しながらプロの競技会に出場したり、アイスショーに出演したりと華々しい活躍を見せた。シングルスケーターとしてだけでなく、ペアスケーターとしても活動するなど特異な経歴の持ち主だ。2009年6月から現在はコーチ業に専念しており、ソチ五輪に向けた今季のオリンピックシーズンは指導する選手たちのサポートを最優先で取り組む日々を送っている。ソチ五輪後の来シーズンからは、20周年を迎えるプロスケーターとしての活動も再開させ、振付けにも力を入れていきたいと考えている。
――現役時代の有香さんは、何を目指してフィギュアスケートに打ち込む選手でしたか?

 自分の選手時代は一生懸命ただひたすら努力し続けてやっていた思い出があります。試合でメダルを取るとか、良い成績を出すということよりも、日ごろの練習の成果が本番で出せれば満足という感じで、あまり勝ち負けにこだわりがありませんでした。でも、プロ生活をしたいという自分の夢が大きかったので、それには絶対に必要なものが(世界)タイトルでしたから、そのキッカケを作るためにひたすらやっていった部分はあります。
 普通、選手に質問すると「五輪で金メダルを取りたい」というきちんとしたゴールがあるんです。でも私にはあまりなかったんですよね。メダルの先にある夢のステージで自分が思ったようなスケートのキャリアを作っていきたかったし、自分の夢が「スターズ・オン・アイス」に出たり、未知の世界にいきたかったりというのがあって、その目標のためにただひたすら走り続けていましたね。ただ、そこに行くまでに山あり谷ありでいろんな経験をして苦労したところもあったので、いま振り返ってみるとその苦労がなかったら今の私はなかったと思います。

 16歳でカナダにフィギュア留学する前の13、14歳頃から27歳くらいまで、自分はどこで何をしたいんだろう、どの道に行きたいんだろうと、いつも自分に問いかけていました。ここ10年ぐらいになってやっと、自分の人生とか、人として、少し堂々とこの地に立てるようになりました。それまではあまり自分に自信がなくて、何かを求めていたんですが定まっていなくて、ちょっとさまよっていた感じで、不思議な時期だったかな。もちろん後になれば後になるほど、少しずつ自分のゴールが明確になっていったんですけど、本当の意味でちゃんとしっかり分かってきたのは30歳過ぎたあたりかな。そんな気がします。
――世界女王になった後、21歳で単身、米国に飛び立ちました。米国での活動はどうでしたか?

 いろんなことがありましたよ。本当に幸いにもお仕事がたくさんいただけたんです。プロの試合やアイスショーに積極的に出ました。自分の夢が「スターズ・オン・アイス」でツアーを回る、遠征するということだったのですが、なかなかそこにはたどり着けなかったですね。その一番の夢の実現は、残念ながらもっともっと後にならないと来なかったです。

 夢を追いかけてプロになってから約10年は、違う仕事をしながら頑張っていたんですが、そこで自分なりにいろいろ葛藤がありました。思ったようには夢に到達できなかったんですが、でも苦労したかいがあったかな。確かに不安がいっぱいで、米国で自分が仕事をし始めたときに、まず生活環境が違ったし、やっぱりビジネスの世界では自分の好き勝手はできません。日本でも同じですが社会人としての生活には責任もついてくるし、生計を立てながら自分の好きなことをやっていかなければいけなかったです。

 何も分からないところから突然、米国に飛び出して生活が始まったので、軌道に乗るまで3、4年はかかったかな。あの時期をいま振りかえってみて、あまり楽しくはなかったですね。苦しい時期の何年間を我慢しながら、これでいいのかな、これでいいのかな、と問いながら、ちょっとずつ成長していって、何かのきっかけで周囲の人たちとコネクションができて、気がついたら溶け込めるようになって、この世界のビジネスはこういうことなんだなというのも。良い思いもしたし、嫌な思いもしながら学んでいったので、そういった意味で時間がかかった分、よく理解できるようになったので良かったです。アイスショーの世界にはこんな人たちがいて、プロダクションがあって、ステージが作られ、スケーターのキャストがいて成り立つもので、舞台裏や裏方がどう回っているのか、人間関係などを学ばなければいけなかったですし、「ショースケーターはこういうものだ」ということを勉強しました。英語は日常生活での問題はなかったですが、契約関係とか仕事関係では問題がありました。本当にちゃんと全部分かるには時間がかかりましたね。

「やってよかった」と話すアイスショーでの経験。公演の日々で、さまざまな事を学んだ 【IMG】

――プロになって10年間は、夢の実現に向けた修行期間のようでしたね。

 私が夢にまで見た「スターズ・オン・アイス」に最初に出たのは1999−2000年シーズンでした。このアイスショーは北米をツアー(遠征)しながら行う興行で、それまで私が経験してきたショーとはまったく違っていました。一番最初の年は70カ所を回ったんですけど、プロスケーターとして10年間仕事をやってきた私はシーズンプロと言われるまでのキャリアを積んできていたんですけど、あのツアーに最初に入っていったときにまったく一年生だなと考えさせられた部分がたくさんありましたね。自分の未熟さをすごく痛感させられました。

 スーツケースを1つ、2つ抱えて、毎晩違うホテルに泊まりながら、バスや飛行機で移動して、どんどん各地を移っていく。あの生活をし始めたときに、それまでは単発でいろんなショーに出演して90パーセントから100パーセントの力が出せるようになっていたのに、ある日の出演では同じようにウォームアップをして同じように心の準備をしているにも関わらず、40パーセントの力しかどうしても出せなかった。何か精根が尽きるというか、旅で疲れてしまって、4、5カ月ずっと回っているので、何か楽しむというよりも夢にまで見ていたのに「こんなにつらくていいんですか?」みたいな感じでした。

 日本人は100パーセントやらなければいけない、いつも頑張らなければいけないと教えられて育ちますが、人間はいつも100パーセントでは持たない。どこかで休息を取らなければいけない。でもツアーで回っていたらその休息が取れない。自分のスケジュールでは動けなくて、他人のスケジュールで動くようになるので、それを上手く切り替え、気分転換をしていくのはどういうことなのか。そんなときに周りを見ると、一緒に回っていたチームメイトたちが遊ぶんですよ。最初は片っ端から一緒について遊んでみたんですけど、逆にそれで疲れてしまって、休日に食事に行くぞ! と言うと夜中までいくわけですよ。しばらくしてから私は結構です! みたいになってちょっと引きこもりぎみになってしまったこともありました。結局は、何カ月も遠征していく中での気分転換は休息につながることが分かり、100パーセントやることだけが美しいことではないし、大事なときに力を出さなければいけないので、うまく調整していかないといけないと切り替えました。
 そういう意味での修行が始まり、09−10年シーズンを最後に8シーズンのツアー生活を送りました。やっと最後の4年間(シーズン)はすごく充実して楽しむことができ、何かどんどんやることが実になって、やっと自分が夢に見た経験ができましたね。かなり時間はかかりましたが、やって良かったです。

――「スターズ・オン・アイス」のツアー生活がどういったものか教えてください。

 どこでも寝られ、何でも食べなければいけないサバイバーなツアー生活は、1月から始まって4月くらいのツアー期間で1年目が70箇所、その後は48箇所に減って、最終的には40箇所ほどを回りました。毎年11月に入るとツアーショーのリハーサルが始まって、2〜3週間の拘束期間がありました。リハーサルでは朝から晩までショーのステップを学びます。だいたいが11月終わりの感謝祭の翌日がレークプラシッドでのスターズ・オン・アイスのオープニングなんですよ。そこでオープンしたらしばらく休みに入って、1月から本格的にツアーが始まり、ショーの本体が動くんです。だから、12月は別のショーに出て、プロの試合があった時代は競技会に出たり、単発の仕事をしたりして、1月からずっとツアーショーに出ていましたね。だいたいその繰り返しかな。お休みは5月か6月でした。

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著者プロフィール

 東京生まれの横浜育ち。1991年大学卒業後、東京新聞運動部に所属。スポーツ記者として取材活動を始める。テニス、フィギュアスケート、サッカーなどのオリンピック種目からニュースポーツまで幅広く取材。大学時代は初心者ながら体育会テニス部でプレー。2000年秋から1年間、韓国に語学留学。帰国後、フリーランス記者として活動の場を開拓中も、営業力がいまひとつ? 韓国語を使う仕事も始めようと思案の今日この頃。各競技の世界選手権、アジア大会など海外にも足を運ぶ。

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