瀬古利彦が見つめたラストラン=エスビー食品陸上部、栄光と苦悩の歴史

加藤康博

「偉大すぎた」瀬古の存在

瀬古(左)は指導者として五輪選手を輩出。03年の福岡国際マラソンを制した国近(右)はアテネ五輪マラソン代表に選出された 【写真:築田純/アフロスポーツ】

 選手として国民的なスターになった瀬古だが、指導者としては手腕を疑問視されることもあった。早大時代から育てた花田勝彦、櫛部静二、渡辺康幸らがマラソンで五輪出場を果たせなかったことがその理由だ。
 瀬古は振り返る。
「自分は指導者として甘かった。選手から練習方法に対しての疑問の声が上がると、『ならば自分のやりたいようにやりなさい』と言ってしまう。指導者として、ダメだと思うことはダメと突き放す強い姿勢を持つべきでしたが、私はそれができなかったんです」

 しかし、今は上武大駅伝部監督として指導する立場になった花田は別の意見を口にする。「最近思うのは、指導者は辞書のような存在だということ。“瀬古利彦”という辞書には世界で戦うための練習法や、レースでの勝ち方が書かれている。しかし自分たちはそれを引きこなすことができなかった。瀬古さんが指導者として評価されない理由は自分たちの責任でもあります」

 現在、エスビー食品で監督を務める田幸寛史も同様の考えだ。「“瀬古利彦”とはマラソンを走るうえでの究極の奥義であり、誰もが真似できるものではありません。しかし何とかしてそこに近づく手段はあるはず。“瀬古利彦”に追いつく方法を確立することが今後の課題です」

「瀬古さんは偉大すぎた。だから誰も越えられなかった」とは現早大競走部駅伝監督の渡辺が師について語る時の言葉だ。エスビー食品陸上部では瀬古に追いつき、追い越すことが当初の目標だったようだが、時間の経過とともにそれはどんどん難しくなっていった。教え子ではこれまで国近友昭がただひとり、タイムで瀬古を上回ったが、その戦績、そして国民の目をくぎ付けにしたスター性という面では渡辺が言う通り、瀬古は偉大すぎた。教え子が残す生半可な結果では“成功”と見られない宿命を背負わされた指導者・瀬古は不幸だったとも言える。花田も渡辺もトラックで五輪代表の座を射止め、国近はマラソンでその舞台に立っているのだ。

夢の続きは新天地・DeNAで…

「とにかくひとつの時代が終わったということです。ここまで新しいチームの事で頭がいっぱいで感傷に浸る暇はなかったけれど、今日は少しうるっときましたね」
 全日本実業団ハーフのレース後、記者に囲まれた瀬古はそう晴れやかな表情で語った。4月からはDeNA陸上部として再スタートを切る。駅伝への参戦もすでに表明し、それが叶うだけの数の部員も加入する予定だ。廃部が決まってから、新しい受け入れ先を探す交渉、そして受け入れ先の決定後は新チームの体制作りへと奔走していただけに、この言葉は本心だろう。

「エスビー食品陸上部として最も印象的な出来事は?」
 そう問いかけると瀬古は少し考えて、「いろいろあるけれど、84年のロサンゼルスに4名の選手が行けたことかな」ときっぱりと言った。
 これからは駅伝の結果も求められる。しかし夢は変わらない。強いマラソンランナーを多く育てられれば駅伝でも勝てるし、かつてエスビー食品や旭化成が日本の男子マラソンを盛り上げたような状況を再現できる。そしてその先の世界を目指したいと付け加えた。
「今も4月以降が心配ですよ。まだ始まってもいないのですから不安で仕方がない。でも精いっぱいやるだけです」そう語り、瀬古は足早に空港へと向かった。

 80年以降、五輪9大会のうち7大会、のべ16人の選手を送り込んだエスビー食品はこうして静かにその歴史に幕を下ろした。(文中敬称略)

<了>

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著者プロフィール

スポーツライター。「スポーツの周辺にある物事や人」までを執筆対象としている。コピーライターとして広告作成やブランディングも手がける。著書に『消えたダービーマッチ』(コスミック出版)

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