なぜバルサは「クラブ以上の存在」なのか=弾圧から生まれたアイデンティティー

田澤耕

一言では言い表せない複雑な思い

カンプノウの観客席には「クラブ以上のクラブ」と刻まれている。このモットーはバルセロナが直面した歴史的試練から生まれた 【写真:なかしまだいすけ/アフロ】

 バルセロナのファンはもちろんのこと、たいていのサッカーファンはバルサが「クラブ以上のクラブ」(més que un club.)と言われていることはご存じだろう。ここでは、このモットーがいかにして生まれたのか、そしてどのような意味を持っているのか、ということについて書いてみようと思う。

 テレビでバルサの試合を観戦した人、あるいは幸運にもバルセロナを訪れて、カム・ノウ(カンプ・ノウは正確にはこう発音する)で試合を見たり、スタジアムツアーに参加したことがある人なら、més que un clubとえんじ色と青で染め抜かれた観客席が強く印象に残っているだろう。「最強のクラブ」とか「世界一のクラブ」とか書かれているのならともかく、「クラブ以上のクラブ」とはいかにも思わせぶりではないか。いったい、何が言いたいのだろう?

 実は、このモットーはもったいぶっているわけでも、思わせぶりなわけでもない。一言では言い表すことができないさまざまな複雑な思いが込められているために、このような曖昧な表現になってしまったのだ。

 バルセロナはスペインの都市であり、バルサはリーガ・エスパニョーラに参加するスペインのチームである。ところが、このmés que un clubはスペイン語ではない。スペイン語ならばmás que un clubでなければならない。このモットーは、カタルーニャ語なのだ。カタルーニャ語は、バルセロナがあるカタルーニャ自治州の固有の言語。カタルーニャの人々は、ほかのスペインとは異なる文化と言語を持つ、いわば「異民族」なのである。バルサについて語る上で、あるいはレアル・マドリーとバルサの関係を語る上では、この事実を基本中の基本として押さえておかねばならない。

自治権拡大支持を全面に打ち出す

 さて、「クラブ以上のクラブ」であるが、これを解読するには、「カタルーニャ人にとっては」という表現を前に補ってやるといい。そのような思い入れが始まったのは、創設の1899年から15年ほどたったころにあったある事件がきっかけだった。

 カタルーニャは、中世のころは地中海全域に勢力を伸ばした一大海洋帝国だったのだが、その後凋落してスペインに吸収合併され、18世紀にはその一地方になり下がっていた。一方、スペインは中南米からフィリピンにまで領土を拡大し、「陽の沈むことのない帝国」と言われるほどの栄華を長い間誇っていた。しかし、19世紀末になると、さすがの大帝国にもほころびが目立つようになり、1898年に新興国アメリカとの戦争に敗れると、おおかたの海外植民地を失ってしまうことになった。

 そんな落ち目のスペインの中で、カタルーニャは産業の中心地として復活を遂げていた。そして当然のように自治権拡大を求める運動が起こる。「自治憲法」を定め、実質的な独立を勝ち取ろうというのである。

 しかし、「腐っても鯛」の誇り高きスペイン政府はこれを認めなかった。もちろん上り調子のカタルーニャも黙って引き下がるわけがない。バルセロナでは大規模な抗議活動が繰り広げられた。この中で、バルサは、民間スポーツ団体でありながら、自治権拡大支持を全面に打ち出したのである。この姿勢はカタルーニャの人々から熱狂的な拍手をもって迎えられ、バルサは「おらがチーム」というイメージが確立した。同じバルセロナに本拠地をおく「RCDエスパニョル」が、政治には関与せず、という態度をとったことが一層、バルサへの称賛を増幅した。

 ここが「クラブ以上のクラブ」の発端であると考えていいだろう。しかし実際にこのモットーができたのはずっと後のことである。この表現を演説の中で用いたのは1968年にバルサの会長に就任したナルシス・ダ・カレラスだった。

 実は、そこに至るまでには、バルサにとっても、カタルーニャにとっても、とてつもなく大きな歴史的試練があった。スペイン内戦である。

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著者プロフィール

法政大学国際文化学部教授。1953年生まれ。一橋大学社会学部卒、バルセロナ大学博士課程修了、文学博士。カタルーニャ語、文化専攻。2003年、日本・カタルーニャ文化の相互紹介の実績により、カタルーニャ政府からサン・ジョルディ十字勲章を授与される。主な著書に『物語カタルーニャの歴史』『ガウディ伝』(共に中公新書)など

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