なぜバルサは「クラブ以上の存在」なのか=弾圧から生まれたアイデンティティー

田澤耕

フランコ独裁政権による弾圧

今季の行方を左右するクラシコ2連戦が近づく。果たして勝利をつかむのは!? 【Getty Images】

 スペイン内戦は、1936年、軍部と右翼が、当時のスペイン共和国政府に対してクーデターを起こしたことで始まった。左翼勢力が主導する共和国政府が、進歩的、自由主義的な政策を行おうとしたことに、カトリック教会、地主、貴族、軍などの旧体制勢力が反発したのである。悲惨な戦乱は1939年まで続き、反乱軍が勝利を収めた。その結果成立したフランコ独裁政権は、共和国を支持していたカタルーニャを徹底的に弾圧した。共和国軍に参加した人や左翼活動家の多くが満足な裁判もなく処刑された。40万人とも言われる人々が弾圧を恐れ、ピレネー山脈を越えてフランスへ亡命。カタルーニャではカタルーニャ語の使用が禁じられ、カタルーニャの民族芸能も演じることができなくなった。カタルーニャ語の個人名までスペイン語に改名させられた。たとえば、シャビ(シャビエルの愛称)はハビ(ハビエル)となったのである。

 そんな中で、カタルーニャの人々に愛されていたバルサが弾圧の標的になるのは避けがたいことだった。解体されてしまってもおかしくない状況だった。しかし、カタルーニャのブルジョアジーがその経済力をテコにフランコ体制に取り入り、なんとか解体という事態は食い止める。その代わり、バルサの首脳陣には体制派の軍人らが就くことにはなったが、それはやむを得ないことであった。

 フランコ体制は1970年代の後半まで続いた。この間、フランコ政権は国際社会に受け入れられるために、徐々に独裁色を薄めていく。その流れの中で、バルサの首脳部にも少しずつカタルーニャ人が戻ってきた。「クラブ以上のクラブ」を発言したダ・カレラス会長も、フランコ体制の協力者ではあったが、おそらくカタルーニャ人としてカタルーニャを愛するブルジョアの1人だった。ただ、バルサのカタルーニャ化を大幅に推進して、このことばに実質的な内容を与えたのはダ・カレラスの跡を継いだアウグスティ・ムンタルだった。

カタルーニャの人々とバルサは「戦友」

 このように、カタルーニャの人々の多くは、約40年間におよぶフランコ独裁による弾圧に耐えた。そしてバルサもその中でかろうじて生き延びた。バルサはある意味、カタルーニャ人に最後に残されたアイデンティティーの象徴だったのである。いわば両者は「戦友」なのだ。語りつくせない思いがそこにあっても不思議ではないだろう。

 バルサのユニホームには、最近まで企業のロゴがなかった。ソシ(ソシオ)と呼ばれるサポーター会会員の会費と入場料収入で運営が可能だったからである。一番経営が苦しい時期には、サッカーそのものにはそう興味がない人でも会員となり、自分の苦しい家計の中から会費を捻出してクラブを支えようとした。まさに彼らにとってバルサは単なるサッカーチームではなかったのである。

 エル・クラシコ(伝統の一戦)の2連戦が近づいている(2月26日にスペイン国王杯準決勝第2戦、3月2日にリーガ・エスパニョーラ第26節)。カム・ノウそしてサンティアゴ・ベルナベウ・スタジアムはいつものように、両チームのファンの熱狂的な応援で湧き上がるだろう。しかし、このような「クラブ以上のクラブ」の由来を知った後では、双方の応援が少しは違ったものに聞こえるかもしれない。

<了>

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 首都マドリードを本拠地とするレアル・マドリーと、熱狂的ファンに支えられクラブ以上の存在と言われるFCバルセロナは十九世紀末の創立以来、サッカーにとどまらず激しく対立してきた。スペイン史、民族問題ともからむ両チームのライバル関係の歴史・構造を、節目となる試合・事件とともに活写。

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著者プロフィール

法政大学国際文化学部教授。1953年生まれ。一橋大学社会学部卒、バルセロナ大学博士課程修了、文学博士。カタルーニャ語、文化専攻。2003年、日本・カタルーニャ文化の相互紹介の実績により、カタルーニャ政府からサン・ジョルディ十字勲章を授与される。主な著書に『物語カタルーニャの歴史』『ガウディ伝』(共に中公新書)など

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