再起を懸ける高原直泰が歩んだ苦難の道=初のJ2で復活を果たせるのか

元川悦子

プロ8クラブ目の新天地

清水から東京Vに移籍した高原。初のJ2で再起を懸ける 【Photo:Getty Images】

「昨年(清水)エスパルスで契約満了となり、海外からもオファーがありましたけど、自分としては国内でやりたい気持ちが強かった。ギリギリまでチームを探しましたが、東京ヴェルディさんがオファーを出してくれた。非常にうれしかったし、このチームで新しいものをつかみ取りたいですね。J2は初めてになりますけど、とにかく自分らしいプレーを出すこと(が大事だ)と思います」

 1月20日の東京Vの新体制発表の席上で、33歳のベテランストライカー・高原直泰はJ2を新天地に選んだ理由をこう語った。2002年にJリーグMVP、得点王、ベストイレブンを総なめにし、00年から足掛け9年間、日本代表のエースFWに君臨してきた男が2部リーグ行きを決断するのは容易なことではなかったはずだ。それでも、本人が国内で再起を懸けたいという思いは強かった。今季は同じ黄金世代の遠藤保仁と加地亮がJ2でのプレーを余儀なくされ、遠藤に至っては2部からの日本代表参戦という困難に挑もうとしている。そんな同世代の姿を目の当たりにして、高原が刺激を受けた部分も少なからずあるだろう。

 13年シーズンの東京Vは、阿部拓馬がドイツ2部・アーレンへ赴いたのを皮切りに、和田拓也がベガルタ仙台、高橋祥平が大宮アルディージャ、梶川諒太が湘南ベルマーレ、土屋征夫がヴァンフォーレ甲府へ移籍するなど、昨季の軸を担ったメンバーがごっそり抜けた。とりわけ、シーズン18得点を挙げた阿部の離脱は大きな懸念材料といえる。「今季の東京Vは戦力ダウンが否めない」と厳しい目線で見るJ2の指揮官もいて、08年以来のJ1復帰への道は険しい。高原の完全復活がチームにとっても、三浦泰年新監督にとっても必要不可欠なのだ。

「チームの目標はしっかりしている。それを達成できるように、ひとつの歯車となって頑張っていきたい」と力を込める男がプロ8クラブ目の新天地でどのようなパフォーマンスを見せるのか……。それは東京Vサポーターのみならず、日本中のサッカーファンの関心事といっても過言ではない。

極めて強かった海外志向

 1979年生まれの高原はご存じの通り、小野伸二、稲本潤一らと並ぶ黄金世代の看板選手。10代のころから華々しいキャリアを積み重ねてきた。95年U−17世界選手権(現U−17ワールドカップ=W杯=)・エクアドル大会、99年ワールドユース(現U−20W杯)・ナイジェリア大会、2000年シドニー五輪と年代別世界大会にすべて出場し、ワールドユースでは準優勝の立役者となった。FIFA(国際サッカー連盟)主要大会で日本の男子代表チームが決勝に進出したのは、後にも先にもナイジェリアで勝ち進んだ彼らだけ。その偉大な歴史は今も色あせることはない。

 このユース代表が発足した当初、清水東高校の点取り屋だった18歳の高原に話を聞いたことがある。彼は「おれはプロで思い切り勝負したい。30歳までに一生分のカネを稼いでやる」と目をギラつかせていた。その野心は普通の若者とは違った。若いうちから国際舞台を経験してきた意地とプライドがあるからこそ、独特のオーラを漂わせていたのだろう。

 98年にジュビロ磐田入りした後も、高原の海外志向は極めて強かった。01年にはフェイエノールトへ行った小野、アーセナルへ行った稲本の後を追うようにアルゼンチンの名門、ボカ・ジュニアーズへ移籍。本場でプレーする醍醐味(だいごみ)を肌で実感した。アルゼンチンの経済情勢の影響などから翌02年にいったん磐田に復帰。肺動脈血栓塞栓症にかかって02年W杯・日韓大会の大舞台を棒に振ることになったが、Jリーグでは26得点という目覚ましいゴールラッシュを披露。MVPなどのタイトルを総なめにする。このころの高原の勢いはすさまじく、爆発的な成長曲線には誰もが驚かされたはずだ。

 そして03年1月に2度目の海外であるドイツへ渡る。ハンブルガーSV移籍当初は思うような活躍ができなかったものの、3シーズン目の04−05シーズンは7得点をマーク。アイントラハト・フランクフルトへ移籍した06−07シーズンはリーグ戦11点と2けたゴールを奪うとともに、クラブの1部残留の原動力となった。

エースとして君臨し続ける勢いだったが

 中田英寿、中村俊輔、小野ら海外である程度の成功を収めた日本人MFは何人かいたが、FWでは高原が日本人の最高点に達した1人といっても過言ではない。彼は当時、「日本人は(ウェイン・)ルーニーとか(サミュエル・)エトーとか世界トップ選手の分析ばかりするけど、彼らの下にもいい選手はいる。そこまで強烈じゃなくても点を取ってる選手はたくさんいるんです。基本的にFWが海外で結果を出すことはそんなに簡単じゃない」と強調したことがある。し烈な競争が日夜繰り広げられる世界に足を踏み入れたからこそ、こうした発言をしたのだろう。今でこそドイツには10数人の日本人選手がプレーするようになったが、先駆者である彼の活躍がなければ、これだけ日本人選手の価値が上がることもなかった。高原の残した足跡は非常に大きいのである。

 その間、ジーコ、イビチャ・オシム監督率いる日本代表にもコンスタントに招集された。自身初のW杯となった06年ドイツ大会は不完全燃焼な形で終わったが、07年のアジアカップ(東南アジア4カ国共催)では得点王のタイトルを獲得。生粋のストライカーはどこまでも日本のエースとして君臨し続けそうな勢いだった。

 ところが、このアジアカップをピークに高原のパフォーマンスは低下の一途をたどっていく。07−08シーズン前半戦のフランクフルトで出場機会を大幅に減らし、08年1月の冬の移籍市場でJリーグ復帰を決断。満を持して浦和レッズに移籍したものの、絶好調時の状態からはかけ離れていた。

 オシム監督の急病により岡田武史監督が後を引き継いだ日本代表にも発足当初は呼ばれたが、指揮官からコンディション不良を問題視され、08年5月のパラグアイ戦直後に離脱を命じられてしまう。これを最後に代表から遠ざかり、2年半過ごした浦和でもリーグ戦の総得点はわずか10。最後のシーズンは事実上の戦力外扱いを受けるに至った。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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