新たな挑戦を決意した梶山陽平が渇望する“成長”=ギリシャ名門への移籍、27歳でつかんだチャンス
トップ下での起用はベストだったのか
FC東京では中盤の要として君臨。より成長を求め、厳しい環境に身を置くことを選択した 【写真は共同】
梶山は走り、奪い、戦っていた。その変化は、オシムジャパンでの活動を機に、運動量が増した遠藤のようでもあった。
ただ、Jリーグ26試合2得点という成績は、前線の選手としては物足りない。シーズンを終えて「トップ下にはなじんだか」と聞くと、「いや……?」と梶山は首を傾げた。
今季のFC東京は、ボランチを梶山と高橋秀人で組み、長谷川アーリアジャスールがトップ下に位置する布陣でスタートした。それが変わったのは、柏レイソルとのゼロックススーパーカップ、ブリスベン・ロアーとのACL(AFCアジアチャンピオンズリーグ)第1節を経たあとの3試合目、大宮アルディージャとのJ1開幕戦だった。敵地NACK5へと乗り込んだFC東京は、連戦の疲労もあって立ち上がりから苦戦した。
そこで前半の途中から梶山をトップ下に上げ、長谷川をボランチに下げた。このポジション交換がうまくいってパスが回り出すと、ポポヴィッチ監督は新布陣をいたく気に入り、以後、梶山は4−2−3−1のトップ下として奮闘を続けた。
しかし、それが梶山にとってのベストだったかどうかは分からない。チームは梶山を使い切れていなかったのかもしれないし、梶山も非常にいいプレーをしていたが、ベストのパフォーマンスを発揮し続けたとは言いがたい。
アンタッチャブルな存在になっていた王様
そして馬場の後輩にあたる梶山がいた。梶山はボランチのポジションを中心にボールを収める役割を引き受け、ポゼッションの中心にいて、背番号10を背負い、いつも王様だった。ケリー以来の安定感。極端なことを言えば、梶山がいないとボールが収まらず、サッカーにならない状態が、ここ数年間続いていた。
2011年のJ2無双モードは、5月22日の第13節、味スタでの対湘南ベルマーレ戦にて、田邉草民が低い位置から運び、梶山に預けるルートを築いたことから始まった。
FC東京は梶山のチームだった。言い換えると、梶山はアンタッチャブルな存在になっていた。
それが本人にとっても、クラブにとっても、よかったのかどうか? もし梶山がいつまでもFC東京にいたら、チームは梶山頼みから抜け出せず、梶山もまた、少々悪いプレーをするときがあっても頼られる地位を失わない環境でスポイルされることになりかねない。
移籍期間の半年で結果を残せば、さらなる出世も
公式戦全日程を終えたあとの小平グランド。梶山はファンにプレゼントする自らの等身大POPにただ「成長」とだけ書いた。東京で、とは書いていない。もうそのときには、欧州へと旅立つ姿が見えていたのかもしれない。
坂田大輔がギリシャのアリス・テッサロニキから日本に帰ってきたとき、彼の体は、以前とは似ても似つかぬ「ガチムチ」な筋肉質体型になっていた。それだけ肉体の強さを求められるのがギリシャという戦場だ。おそらく、梶山はその適応に関しては問題ない。
パナシナイコスへの期限付き移籍期間は半年。この間に結果を残せば、さらなる出世もあるだろう。
小学生のときから着ていた青赤を脱ぎ、初めて違う色のユニホームを身にまとう。東京っ子にとっては紛うことなき冒険だ。新しい道を歩み、その先にサムライブルーが見えてくるのなら、送り出すかいもあろうというものだ。
<了>