高円宮杯3連覇を置き土産に去りゆく名将=広島ユースを名門に導いた森山監督の功績

安藤隆人

広島ユースを3連覇に導いた森山監督の人間性

高円宮杯で3連覇を達成し、選手たちに胴上げされる森山監督 【写真:佐藤博之/アフロ】

 12月16日、Jクラブユース界きっての名門・サンフレッチェ広島ユースが、東京ヴェルディユースを4−1と一蹴し、ユース年代の最高峰の大会である高円宮杯で3連覇という金字塔を打ち立てた。
「3年生の頑張りという伝統が今日も生きた。ウチは春先は全然ダメで、秋以降に上がってくるチーム(笑)。寮生活の中で、仲間との意識が育まれ、最終的には3年生が下級生を引っ張ってくれることで、チームが一丸となれる」
 試合後の記者会見で、森山佳郎監督は勝因をこう話した。広島ユースの伝統はまさに“団結力”で、それをもたらしているのは、Jユースでナンバーワンの就任年月を誇る、森山監督以外にほかならなかった。

 広島ユースを今の地位に導いたもの。それは森山監督のパーソナリティーそのものと言っていい。「自分はいつもバカポジティブ」と口にするように、森山監督は現役時代から、明るく前向きで、常に戦う闘志を前面に押し出す陽気なファイターであった。

 森山監督と筆者の出会いは、今から16年前にさかのぼる。当時、森山監督は現役の広島の選手で、知人の広島サポーター通じ、話す機会を得た。初めて直に触れるJリーガー。想像とは違って、どこまでもフランクで、どこまでも優しかった。まさに人間味のある人物で、筆者はほかのチームのサポーターだったが、すぐに彼のファンになった。

 そして、2002年に広島ユースのコーチから監督に就任。森山選手から森山監督に代わったことで、少し不思議な気分だったが、彼の作り出す魅力的なチームを取材していくにつれ、指導者としての森山佳郎に魅了された。そして深く尊敬の念を抱くようになった。

指揮官が植え付けた“戦う姿勢”

 森山監督がまずしたこと。それは技術偏重になりがちだったJクラブユースに、自分の現役時代さながらの“戦う姿勢”を植え付けることだった。「実は最初は半年間だけと言われていたんだけどね。その年のJユースカップで準優勝したことで、『じゃ、来年も』となったんだよね(笑)」と笑うが、そこには選手たちの意識改革があった。そこから広島ユースは名門への歩を着実に進めていく。

「練習から本気になれないやつはいらない。練習で本気を出せないやつ、勝負にこだわらないやつ、チャレンジしないやつが本当の試合で、技術的にも戦術的にも最高のものを出せるわけがない」

 普段の練習から一切、勝負事に妥協を許さなかった。技術のある選手たちに、ハードワークの精神を植え付けるべく、ミニゲームや紅白戦、どれをとっても、タフさ、激しさ、戦う姿勢を植え付けるように工夫をした。例えば、ミニゲームでも負けたら罰走に加え、ラストの1点をVゴールにすることで、「5−0、6−0の展開でも、あと1点が30分間入らないこともあるし、勝っているチームが1点を取り損ねている間に、追いつかれ、逆転されてしまうこともたまにある」と、最後まであきらめない姿勢を植え付けた。さらに寮生活も森山サンフレッチェを語る上で欠かせないファクターだ。広島ユースに所属する選手たちは全員、地元の吉田高に進学し、3年間寮生活を送る。毎日、公私ともに“森山イズム”が注入できる環境で、選手たちは相互理解とチームワークを身に付けていく。

 こうした環境の中から高萩洋次郎、森脇良太(ともに広島、※森脇は来季から浦和加入が決定)、田坂祐介(ボーフム)、槙野智章、柏木陽介(ともに浦和レッズ)ら、多くの選手が輩出され、チームとしても常にユース年代の大会の優勝争いにくい込む強豪になった。

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著者プロフィール

1978年2月9日生まれ、岐阜県出身。5年半勤めていた銀行を辞め単身上京してフリーの道へ。高校、大学、Jリーグ、日本代表、海外サッカーと幅広く取材し、これまで取材で訪問した国は35を超える。2013年5月から2014年5月まで週刊少年ジャンプで『蹴ジャン!』を1年連載。2015年12月からNumberWebで『ユース教授のサッカージャーナル』を連載中。他多数媒体に寄稿し、全国の高校、大学で年10回近くの講演活動も行っている。本の著作・共同制作は12作、代表作は『走り続ける才能たち』(実業之日本社)、『15歳』、『そして歩き出す サッカーと白血病と僕の日常』、『ムサシと武蔵』、『ドーハの歓喜』(4作とも徳間書店)。東海学生サッカーリーグ2部の名城大学体育会蹴球部フットボールダイレクター

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