自国開催のW杯を経て「変化の時代」に=Jリーグを創った男・佐々木一樹 第6回

大住良之

「2ステージ制」の廃止でノーマルなリーグへ

2002年に1st、2nd両ステージ制覇し、ステージ杯を掲げるジュビロ磐田の中山雅史(左)とJリーグ杯(優勝銀皿)を掲げる服部年宏(右) 【Jリーグフォト(株)】

 96年を除いて初年度から続けられてきた「2ステージ制」とそれに伴う「チャンピオンシップ」の実施も04年が最後になり、05年以降はホームアンドアウエーの2回戦総当たりで獲得した勝ち点でシーズン優勝が決められるようになった。

「いろいろな状況が出てきて、2ステージでやっていくことの難しさが見えてきました。99年に年間の勝ち点数がいちばん多かった清水エスパルスが、チャンピオンシップで、しかもPK戦でジュビロ磐田に敗れるということがありました。00年には、年間勝ち点最多だった柏レイソルがどちらのステージでも優勝できず、チャンピオンシップに出場すらできなかった。そして02年にはジュビロ磐田が、03年には横浜F・マリノスが両ステージ優勝を成し遂げてチャンピオンシップが開催されなかった。そうしたこともあって、『そろそろ1ステージにして、ホームアンドアウエーでしっかりと戦うべきではないか』という意見が大勢を占めるようになりましたね」

「実は、僕自身は一時期まったく逆のことを考えていて、極端なアイデアですが、『1カ月ごとのステージにして毎月優勝を決めたらどうだろう』という案を持っていたのです。冠スポンサーをつけてね。それくらい刺激が多くないと、世間の話題になりませんからね」

「1ステージ制」を決断したのは、02年に就任した鈴木昌チェアマンだったという。学生時代からサッカーをやっていた第2代チェアマンは、就任前から「Vゴール方式も2ステージ制もやめ、ヨーロッパのようなノーマルなリーグにするべき」という持論を明らかにしていた。

毎年おこる変化に「データセンター」も嘆き

 06年には、J1のベンチ入りできるサブメンバーが5人から7人に増やされ、J2も10年に7人になった。

「12年の競技規則の改正で、交代要員の数が最多12人まで許されることになりました。W杯(23人の登録メンバーのうち、先発以外の12人が全員ベンチにはいって交代要員となる)に合わせたものなのですが、それをJリーグにも広げるとなると問題はありますね……。それはともかく、J2でベンチ入りを7人にするのが遅れたのは、遠征費などクラブの負担が増えることが原因でした。実際、10年にはアウエーゲームを16人(ベンチ入り5人)で戦うケースもありました」

 20年間という長いようで短い期間に、Jリーグは大きく変わってきた。

「いちばん大変だったのは、データセンターだったかもしれませんね」と佐々木さんは笑う。公式記録を集計し、集積している部署だ。

「毎年のようにバージョンアップ、リニューアルが必要だった。シーズンごとに試合数が違うし、勝ち点制度、勝敗決定方法も違った。ベンチ入りの選手が増えたときには、『公式記録用紙に書ききれません』って『泣き』がはいりましたね」

「制度などの変化が多かったのは、何かしなければという思いからだったと思います。少しでもファンの興味を引きつけ、そして戦っている選手たちに励みになるようにといろいろ考え、できる範囲で何とかしようと、結果的に勝ち点制度を変えたり、試合形式を変えたりということになったのです」

制度は変わっても変わらない「理念」

徳島ヴォルティスのスタンドには多くのサポーターが詰めかける。地域に書くことのできない存在になりつつある 【Jリーグフォト(株)】

 そうした大きな変化のなかでずっと変わらなかったのは、「Jリーグに入りたい」という地域が減らなかったことだ。いくつものクラブが運営の苦境を迎えた時期にも、全国各地に次々と加入希望が出てきた。それはなぜなのだろうか。

「制度は次々と変わっても、『理念』は変わらず、それがきちんと見えていたからではないでしょうか」。そう佐々木さんは答える。

「Jリーグのクラブが地域にいかに根付き、地域のなかで楽しまれ、喜ばれているか。地域の生活にいかに貢献しているか。こうしたことが、誰の目にもしっかりと見えていたのだと思います。プロスポーツのなかった新潟がW杯の行われたビッグスワンを軸に成功し、そうしたものがなかった岡山、徳島、愛媛、最近では鳥取、長野などその後に入ってきたクラブもそれぞれの地域で欠くことのできない存在になってきた。そうした例に勇気づけられて、東北でも福島、岩手、秋田、青森と、どの県にもJリーグに入ろうという気運が高まっています。それだけ期待が大きいと感じています」

「ただ、こうした地域がすべてトップを目指さなくてもいいのではないかという思いもあります。勝つことだけがJリーグの理念ではない。地域のみんなで応援できるクラブ、みんなが楽しめるクラブであれば、十分、理念にかなっていると思います。いつもJ2の中位だけど、地域の人が楽しんでくれて、たまにそこからいい選手が生まれて日本代表に選ばれるなどでもいいのではないでしょうか。そこまでいくにはもう少し時間が必要でしょうかね」

<第7回に続く>

(協力:Jリーグ)

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著者プロフィール

サッカージャーナリスト。1951年7月17日神奈川県生まれ。一橋大学在学中にベースボール・マガジン社「サッカーマガジン」の編集に携わり、1974年に同社入社。1978年〜1982年まで編集長を務め、同年(株)ベースボール・マガジン社を退社。(株)アンサーを経て1988年にフリーランスとなる。1974年からFIFAワールドカップを取材。1998年にアジアサッカー連盟「フットボール・ライター・オブ・ザ・イヤー」を受賞。 執筆活動と並行して財団法人日本サッカー協会 施設委員、広報委員、女子委員、審判委員、Jリーグ 技術委員などへの有識者としての参加、またアドバイザー、スーパーバイザーなどを務め、日本サッカーに貢献。また、女子サッカーチーム「FC PAF」の監督として、サッカーの普及・育成もつとめる。 『サッカーへの招待』(岩波新書)、『ワールドカップの世界地図』(PHP新書)など著書多数。 Jリーグ開幕年の1993年から東京新聞にてコラム『サッカーの話をしよう』がスタートし、現在も連載が継続。

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