自国開催のW杯を経て「変化の時代」に=Jリーグを創った男・佐々木一樹 第6回

大住良之

2001年にリニューアルオープンした県立カシマサッカースタジアム 【Jリーグフォト(株)】

 2002年、日本のサッカーは歴史的な年を迎えた。韓国との共同開催ではあったものの、FIFAワールドカップ(W杯)が日本で開催され、日本中が1カ月間にわたってサッカーの素晴らしさに酔ったのだ。

 Jリーグも息を吹き返した。W杯に向け、サッカーの話題が盛り上がるなか、ファンが再びスタジアムに足を向けるようになった。

 Jリーグの初代事務局長、広報室長、理事、常務理事などの立場で12年3月までリーグ運営に当たってきた佐々木一樹さんに聞く「Jリーグ20年の裏面史」第6回は「変化の時代」。

W杯、toto、メディアの恩恵を受けたJリーグ

2002年W杯では、ビッグスワンにも国内外から多くのファン・サポーターが来場した 【Jリーグフォト(株)】

 1997年に1試合平均の観客動員数が1万131人にまで落ち込み、少し持ち直したものの00年まで1万1000人台が続いたJ1リーグ戦の観客数。しかし01年に1万6548人へと急上昇する。フィリップ・トルシエ監督率いる日本代表が急成長し、この年のFIFAコンフェデレーションズカップ(日本と韓国の共同開催)で準優勝。W杯への期待がそのままJリーグに乗り移った形だった。

「W杯で使用するスタジアムが次々と完成し、使用が始まったのがこの年です。W杯が目前になって、サッカーそのものに興味を持ってくれる人が増えたという感じはありましたね」と、当時事務局長としてJリーグの実務を取り仕切っていた佐々木さんは語る。

「totoがスタートしたのも01年でした。toto自体の影響でお客様が増えたのかどうかは分かりません。しかしメディアが再びサッカー自体を大きく取り上げてくれるようになったことは事実です。それが観客数増加につながったことは間違いないと思います」

「93年のリーグスタート時の盛り上がりもメディアに負うところが大きく、川淵三郎チェアマンと『何百億円という価値がありましたね』と話した記憶があります。02年に開催されるW杯に向けての盛り上がりも、メディアの力が大きく、それでJリーグもずいぶん恩恵をこうむりました」

サッカーに関心をもつ人は増えたが……

 W杯が終わってもJリーグへの関心は衰えなかった。1試合平均の観客数も、翌年から1万7000人台、1万8000人台、1万9000人台へと年を追って伸びていく。

「W杯の試合が全国各地で行われ、テレビでも本当にたくさんの人が試合を見て楽しんでくれた。映像も素晴らしく、サッカーに関心をもつ人が飛躍的に増えましたね」(佐々木)

「ただ残念だったのは、W杯のために建設されたスタジアムの半数以上が陸上競技のトラックがついた『兼用スタジアム』だったことでした」

「Jリーグのスタート時から、W杯を開催して良いスタジアムを増やし、そこを舞台にクラブもリーグも世界に追いついていくんだという気持ちがありました。当然、専用スタジアムを希望したのですが、10会場のうち6会場が兼用スタジアムになってしまいました。韓国の方は10会場のうち7会場が専用スタジアムだった。それだけに残念でしたね」

 だがその伸びも、09年には頭打ちになる。「W杯を経て増えたファンをクラブがフォローしきれていなかった。それが現在の観客数の伸び悩みにつながっているのではないか」と佐々木は分析する。

「あるファンが年間に何回来てくれているのか、それが把握できるようになったのは、ごく最近のことです。『ワンタッチパス』というシステムができてからですね。当然、シーズンチケットを買っていただいているお客様のデータはそれぞれのクラブが持っていると思いますが、それ以外の人びとにどう働きかけてスタジアムに足を運んでもらうのか、データがないから、対策を立てられなかったのではないでしょうか」

「最近は、データはそろってきている。しかしクラブによっては人手が足りず、データをどう読み取って観客数増につなげていくのか、手をつけられていないというところもあります」

PK戦とVゴールの廃止

 W杯を経て、全部ではないにしろ、スタジアムをはじめとした競技環境が飛躍的に良くなった2000年代。アップダウンの激しかった最初の10年と比較すると、Jリーグは「安定期」と言っていい時代にはいった。しかしそれは同時に「変化の時代」でもあった。日本にプロのサッカーを根付かせるために始められた特殊な制度が次々と改められていったのだ。

 Jリーグが始まった当時には引き分けがなく、90分間で勝負がつかないと「Vゴール」方式の延長戦を行い、さらに決着がつかないときにはPK戦で勝敗を決するという形がとられていた。99年にPK戦が廃止され、引き分けが導入されたが、03年にはVゴール方式の延長戦もなくなり、現在の形となった。

「Jリーグを始める前、『サッカーは引き分けが多いから見ていてつまらない』という意見がけっこう多く、あくまでも決着をつけてファンに興味を持ってもらおうという考えで、延長戦やPK戦を導入したのです。また延長戦やPK戦があることで、守ってばかりいても何も得られない危険性がある。そこで試合がより攻撃的になるのではという考えもありました。PK戦とVゴールの廃止は、サッカーへの理解が深まり、引き分けでもおもしろいと思ってもらえるようになったとの判断からでした。最初の10年間のうちにずいぶん制度を変えましたが、ファンにいかに興味を持ってもらうかというところで試行錯誤をしていた時期だと思います」

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著者プロフィール

サッカージャーナリスト。1951年7月17日神奈川県生まれ。一橋大学在学中にベースボール・マガジン社「サッカーマガジン」の編集に携わり、1974年に同社入社。1978年〜1982年まで編集長を務め、同年(株)ベースボール・マガジン社を退社。(株)アンサーを経て1988年にフリーランスとなる。1974年からFIFAワールドカップを取材。1998年にアジアサッカー連盟「フットボール・ライター・オブ・ザ・イヤー」を受賞。 執筆活動と並行して財団法人日本サッカー協会 施設委員、広報委員、女子委員、審判委員、Jリーグ 技術委員などへの有識者としての参加、またアドバイザー、スーパーバイザーなどを務め、日本サッカーに貢献。また、女子サッカーチーム「FC PAF」の監督として、サッカーの普及・育成もつとめる。 『サッカーへの招待』(岩波新書)、『ワールドカップの世界地図』(PHP新書)など著書多数。 Jリーグ開幕年の1993年から東京新聞にてコラム『サッカーの話をしよう』がスタートし、現在も連載が継続。

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