香川真司の原点、物語は宮城から始まった=「香川を語る!!」 FCみやぎバルセロナ時代
環境が伸ばしたプレーと意識
日下はチームの方針をこう説明してくれた。中学卒業時、香川は迷わずFCみやぎバルセロナのユースチームへ進むことを決め、伸び伸びとプレーすることで自分のストロングポイントを伸ばし、さらにその才能に磨きをかけた。
「当時、チーム全体が個で打開していけるチームを作っていた中で、真司はファーストタッチがうまく、ボールの最初の置きどころが本当に絶妙だった。足元なのか、1メートル先か、5メートル先か。チャンスのところにボールを置く技術は本当に優れていました。派手なフェイントではないけど、相手の動きを見て常に逆を取っていた。その姿はジダンっぽかったですね(笑)」
周囲の環境も大きく影響し、香川はサッカーを心から楽しんでいた。
「いくらドリブルに特化していると言っても、わがままなプレーを許さない雰囲気でした。みんなまじめで、目標達成のために一丸となれたチームだった。真司だけでなく、みんなが1対1で勝てないといけない。その意識が高くて、それをした上で試合に勝つ。教え込むのではなく、自分たちで考えて課題を修正するようにしていました。自主練を推奨していましたし、2時間の練習の後に真司をはじめ、みんなが自主練をやっていました」
その中で香川はGKのロングキックを受けてから、一気にドリブルで仕掛けてシュートを打ったり、状況をイメージしながらドリブルを繰り返したりと、常にボールに触れながら、イマジネーションとスキルを自主練習でさらに磨いていた。寮の中でははだしで廊下をドリブルしたりしていた。
こうしたサッカー漬けの日々を送る中で、徐々に外部からの刺激が入り、さらに高い意識を持つようになる。
「代表に選ばれて合宿に行ったり、自分たちのレベルより上の環境に接したりすると、もっと上を目指そうという意識がそこから帰ってくるたびに強くなっていた。そして徐々にいろんな人に見てもらえるようになった。すると真司ももっとやろう、もっとやろうという意識が加速し、プレーのスピードだけでなく、意識のスピードも上がっていきましたね」
そして舞台はJリーグへ
ブラジルの関係者に「ブラジルに連れて帰りたい」と言わしめるほど、多くの人の目の前でその才能を見せつけた。そして、この大会を機に香川真司の存在は一気に知れ渡った。だが、徐々に騒がしくなっていく周りに対しても、香川は自分を見失わなかった。
「大体みんな自分に対して甘さがあるのに、真司は身の丈に合った自己評価をしっかりして、現実を見た中で目標を立てる。目標と現実がぶれないので、ギャップを見つけても、核心部分を見つけて思い切って飛び込んでいけるんです」
そして、高校2年生だった香川真司の下にJリーグのクラブからオファーが届いた。
「FCみやぎは、彼の才能をもっともっと伸ばせる環境ではなかった。残ってもらえればチームの中心だけど、真司が次のステージを目指し、プロに行くのは止めてはいけない。次のステージに行かせるべきだと思った」
こうして香川真司の成長のステージは、高校卒業を待たずして、プロの舞台に切り替わったのであった。
<了>