Jリーグ最大の「事件」 社会問題となったフリューゲルス=Jリーグを創った男・佐々木一樹 第5回

大住良之

「Jリーグのクラブをつぶすことはできない」

横浜国際競技場(現日産スタジアム)に掲出された横断幕。 【Jリーグフォト(株)】

 フリューゲルスは間違いなく強豪クラブのひとつだったが、「人気クラブ」というわけではなかった。

 その翌々日、10月31日には、フリューゲルスのホームゲーム、セレッソ大阪を迎えたセカンドステージ第14節の試合が横浜国際総合競技場で行われた。フリューゲルスは7−0で快勝。前半8分にFW吉田孝行が先制ゴールを決め、怒とうのように攻め込んで前半だけで5点、後半にも2点を決めた。

 試合前にはサポーター約100人が集会を開き、フリューゲルスを存続させるための署名集めも行われた。スタンドには「俺たちはあきらめない」という横断幕も掲げられた。しかしこの日横浜国際総合競技場のスタンドを埋めたのは、わずか1万4234人にすぎなかったのだ。

 ところが、その後「存続運動」は火が消えるどころか高まる一方となった。「試合は見に行っていなかったけれど、なくなると聞いて、いても立ってもいられなくなった」と運動に加わった人も少なくなかった。

 Jリーグ事務局は殺到する電話の応対に追われた。当時東京都港区にあった事務局前は、毎日早朝から報道陣がつめかける騒ぎだったという。ほかの仕事などできない状態だった。受話器を取ると、「どうにかならないのですか?」言ったきり、ただ泣いている人もいた。「フリューゲルス」は社会問題となった。

 90年代後半、日本の「あらゆる」といっていい競技で企業の撤退が相次いでいた。しかしフリューゲルスのような社会的な反応が起きたのは初めてのことだった。

「Jリーグのクラブはつぶすことができない。何らかの存続の方法を見つけなければならない」という認識が広まった結果、経営団体の交代などはあっても、クラブ自体は存続するという形が生まれた。

 92年の実質的なスタートから20年、これまでに41のクラブが加盟したが、マリノスとの合併という形で「消えた」フリューゲルスを除く40クラブが現在も活動を続けている。それは、「地域のサポーター」というJリーグならではの人びとの思いがすべてのクラブ関係者にしっかりと理解された結果だった。

ベストメンバー問題と「補足基準」

 2000年には「ベストメンバー問題」が起きた。

 Jリーグ規約42条(最強のチームによる試合参加)に「その時点の最強のチーム(ベストメンバー)をもって前条の試合に臨まなければならない」と明記されていたのだが、ジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)とアビスパ福岡の2クラブがヤマザキナビスコカップの試合にリーグ戦とはまったく違うメンバーを出したことが「規約違反」とされたのだ。

「実際に、市原も福岡もスケジュールがハードで、そうせざるをえないという事情がありました。ヨーロッパでは、リーグでの成績を考慮してカップ戦ではメンバーをまったく変えるということもよくあることなので、『監督が決めたメンバーがベストメンバー』という意見もありました。しかし、Jリーグとしてはまだそうした時期に達してはいないだろうという考えでした。多額のスポンサー料を出してくれているリーグカップスポンサーに対しても失礼ではないかということもありました」(佐々木さん)

 しかしチェアマンの諮問機関であり、法律家を含む「裁定委員会」は「この条項だけでは罰することはできない」という結論を出した。

「明確な基準がなければならないということで、『当該試合直前のリーグ戦5試合の内、1試合以上先発メンバーとして出場した選手を6人以上含まなければならない』という内容の『補足基準』がつくられました」(佐々木さん)

「しかしその結果、『この基準さえクリアできればいいだろう』という形になってしまったのは残念でした。わたし個人の意見ですが、補足基準をなくし、42条を以前の状態に戻して、ベストメンバーとは何か、現場の監督やクラブが判断していくべき時代にきているのではないかと考えています」

 この問題はいまも尾を引いていると、佐々木さんは表情を少し曇らせた。

「事件」がつくってきた「Jリーグという文化」

1999年1月1日、天皇杯で優勝した横浜フリューゲルス 【Jリーグフォト(株)】

 横浜フリューゲルスは生き残ることができず、翌年からマリノスは「横浜F・マリノス」として活動することになった。
 しかしフリューゲルスは最後の大会となった天皇杯全日本選手権で「奇跡」を起こした。
 3回戦から登場した天皇杯で、大塚製薬に4−2、ヴァンフォーレ甲府に3−0、準々決勝でJリーグ準優勝のジュビロ磐田(フリューゲルスはリーグ戦で2戦とも0−4で敗れていた)に2−1、準決勝では前半32分に退場で一人少なくなるという痛手をはね返して鹿島アントラーズに1−0の勝利を収めた。

 そして1999年元日、国立競技場での決勝戦は2−1で清水エスパルスに逆転勝ちを収めた。だが優勝が決まった瞬間が、このチームの最後となった。
 サポーターたちはあきらめずに活動を続け、「横浜FC」を設立。日本サッカー協会は特別措置でこのクラブをこの年からスタートした「J2」の下に位置する全国リーグ「JFL」への加盟を認めた。

 Jリーグが始まってから最初の10年間は、事件に満ちた期間だった。なかでもフリューゲルスの消滅は、最大の衝撃を与える事件だった。しかしこうした事件の数々がリーグやクラブやスポンサー企業、そして何よりもサポーターたちにいろいろなことを考えさせ、議論やそれぞれの努力のなかで「Jリーグという文化」を形づくってきたのは間違いない。

 そして2002年、10シーズン目のJリーグは、大きな飛躍のときを迎える。

<第6回に続く>

(協力:Jリーグ)

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著者プロフィール

サッカージャーナリスト。1951年7月17日神奈川県生まれ。一橋大学在学中にベースボール・マガジン社「サッカーマガジン」の編集に携わり、1974年に同社入社。1978年〜1982年まで編集長を務め、同年(株)ベースボール・マガジン社を退社。(株)アンサーを経て1988年にフリーランスとなる。1974年からFIFAワールドカップを取材。1998年にアジアサッカー連盟「フットボール・ライター・オブ・ザ・イヤー」を受賞。 執筆活動と並行して財団法人日本サッカー協会 施設委員、広報委員、女子委員、審判委員、Jリーグ 技術委員などへの有識者としての参加、またアドバイザー、スーパーバイザーなどを務め、日本サッカーに貢献。また、女子サッカーチーム「FC PAF」の監督として、サッカーの普及・育成もつとめる。 『サッカーへの招待』(岩波新書)、『ワールドカップの世界地図』(PHP新書)など著書多数。 Jリーグ開幕年の1993年から東京新聞にてコラム『サッカーの話をしよう』がスタートし、現在も連載が継続。

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