Jリーグ最大の「事件」 社会問題となったフリューゲルス=Jリーグを創った男・佐々木一樹 第5回
1998年、思わぬ事件がJリーグを襲った 【Jリーグフォト(株)】
この日、大阪の長居スタジアムでは日本代表がエジプト代表を迎えて親善試合を戦うことになっていた。フランスワールドカップ(W杯)後の初戦。フィリップ・トルシエ監督の「デビュー戦」だった。しかし「フリューゲルス消滅」の衝撃は地元開催の2002年W杯に向けた日本代表スタートの影を薄いものにするほど大きかった。
Jリーグの初代事務局長、広報室長、理事、常務理事などの立場で2012年3月までリーグ運営に当たってきた佐々木一樹さんに聞く「Jリーグ20年の裏面史」の第5回は「Jリーグ最大の事件」。
横浜に定着しきれていなかった
1997年ファーストステージ、横浜フリューゲルスのスターティングメンバー。ブラジル代表のジーニョ(10)、サンパイオ(8)を擁した 【Jリーグフォト(株)】
日本全国をカバーする航空会社である全日空が母体となっていることもあり、神奈川県の横浜市をホームタウンとしながらも、鹿児島、熊本、長崎という九州の3県も「特別活動地域」として認められるという特殊な形でスタート。だが、結果的にはそれがクラブ経営を苦しくさせる要因のひとつとなった。
「横浜市にはマリノスがあり、サッカーというとマリノスというイメージが定着し始めていたのに対し、九州での試合も少なくなかったフリューゲルスは定着しきれていないという難しい状況がありました」(佐々木さん)。
96年に福岡県のアビスパ福岡がJリーグに昇格したこともあり、「特別活動地域」の認定は95年で終了、96年以降は原則として横浜市だけの活動となったが、ホームタウンでの人気はマリノスに及ばない状況だったのだ。
ただ、チーム自体は強豪のひとつだった。
初代監督・加茂周の下、最先端の「ゾーンプレス」戦術を身につけ、93年度の天皇杯で優勝。96年と97年にはブラジル代表のMFジーニョ、MFセザール・サンパイオ、そして日本代表の中心的メンバーとなったMF前園真聖(97年にヴェルディ川崎=現東京ヴェルディへ移籍)、MF山口素弘らの活躍で優勝争いにも加わった。
98年はじめには、収容1万5000人の三ツ沢球技場に「手詰まり感」をかかえていた横浜の2クラブにとって「救世主」ともなるべき7万人収容の横浜国際総合競技場(現日産スタジアム)が完成、クラブの未来は明るいと考えられていた。
「大企業依存が招いたチーム消滅」
横浜フリューゲルスと横浜マリノスの合併記者会見で会見する川淵チェアマン(1998年10月29日) 【Jリーグフォト(株)】
「Jリーグ設立時の理念では、日本サッカーリーグ時代と違い、企業に頼らず、地域に根ざしたクラブを育てようということでした。しかしふたを開けてみると大企業に頼る形はまったく変わっていなかった。川淵チェアマンは『10年間で自立』と言っていましたから、98年にまだそこまでいっていなかった部分もあると思いますが。ともかく、このフリューゲルスの問題以後、大企業に頼りきるという形では無理だということが一挙に出てきたと思います。実際のところ、佐藤工業が難しい、全日空もだめだということで、放っておけば、吸収合併どころか『チーム解散』という情勢でした」(佐々木さん)
「実はヨーロッパでもこんなケースがあるのか調べたのです。あまり聞いたことはなかったのですが、クラブが消滅するというケースはけっこうあった。一度つぶれ、同じ町に同じニックネームで違う組織のクラブができたところもありました」
「しかし、Jリーグ設立時から事務局にいた加賀山公(現日本サッカー協会競技運営部部長)たちには『クラブをなくすのは絶対にだめだ。なんとか存続させるべきだ』という考えがあり、最終的には同じ横浜市のマリノスに引き取ってもらうのがいいのではないかという方向になったわけです」
10月29日、Jリーグは臨時理事会を開催し、両クラブの合併を承認した。