斜陽と言われたフェデラーが聖地で示した“正しさ”=ウィンブルドンテニス

内田暁

マレーを破り、ウィンブルドン7度目の栄冠を手にしたフェデラー 【Getty Images】

 芝の王者が、いまだその支配力と威光が健在であることを示した捲土(けんど)重来の日――。同時にそれは、英国の夢と希望が打ち砕かれた瞬間でもあった。

 ウィンブルドン男子シングルス決勝、ロジャー・フェデラー(スイス)対アンディ・マレー(英国)。どちらが勝っても歴史が生まれる一戦は、両者にとっても間違いなく、それぞれのキャリアにおいて最も重大な試合の一つであった。

 テニスの聖地を自負する国に生まれ、国民の期待を一身に受けながら、未だグランドスラムタイトルに届かぬ25歳のマレー。史上最強の選手とうたわれ、そのあまりに輝かしいキャリアゆえに、世界3位であるにも関わらず“斜陽”とささやかれだした30歳のフェデラー。両者にとり、この試合で勝つこととは、自己の存在証明にもつながるものであった。

 マレーのグランドスラムにかける思いの大きさを物語る試合としては、2010年の全豪オープン決勝が真っ先に思い出される。この時の対戦相手も、フェデラー。1セットも奪えず敗れた当時22歳の敗者は、表彰式のスピーチで「応援していてくれたチームの人たち、そして国民のみんな。いつか必ず、優勝してみせる。それが今日でなくて、ごめん……」と言うと言葉をつまらせ、大粒の涙を流したのだった。普段は無表情とシニカルな言動で知られるマレーの突然の涙は、虚勢の仮面を洗い流し、繊細な素顔をあらわにする。そして、その様を傍らで見守っていたフェデラーは、歴史の重みに押しつぶされそうになるマレーの背に、「アンディ、心配することはないよ。君ほど才能のある選手が、優勝できないはずがない」と声を掛けたのである。

マレー、フェデラーとも歴史を背負った決勝戦

 月日のめぐりと選手たちの歩みの交錯とは、なんとも皮肉で運命的だ。

 確かにフェデラーが言うとおり、マレーはその後もタイトルを取るに十分な才能と情熱を示したが、どうしてもタイトルには手が届かぬまま、あの日から2年半の時が過ぎる。そして今回、ついに地元ウィンブルドンで英国人選手として76年ぶり、そして彼自身にとっても初のグランドスラム優勝をかけた、人生最大の大一番に挑んでいた。

 だがそのマレーの前に立ちはだかったのが、フェデラーである。しかもフェデラーにとっても、この試合は2010年全豪以来のタイトルを獲得するチャンスであり、世界ランキング1位復帰までがかかった最高の舞台の一つとなったのだ。そしてマレーが背負う歴史のことごとくは、対戦するフェデラーの側にも「そのような選手と対戦する者」として、重くのしかかってもいたのである。
 
 2012年ウィンブルドン決勝戦。過去3度グランドスラムの決勝で敗れているマレーは、「大舞台に弱い」との批判を打ち砕くかのように、この日は立ち上がりから攻めに攻めた。フェデラーの最大の武器であるフォアの逆クロスを封じるべく、あえてフォアのクロスの打ち合いを挑み、打ち勝っていた。深いストロークでフェデラーをベースラインに釘付けにし、ネットプレーをさせずにもいた。マレーは遮二無二勝利を奪いにいき、そして自分が栄光に値する選手であることを、全身全霊をかけ証明しようとしているようだった。

自らのテニス観崩壊の危機にあった昨年の全米オープン

 では、フェデラーがこの試合で証明したものは、何だったか?

 それは彼が今なお芝の王者であり、現存する最強選手の一人であり、そして、勝利を狂気的に渇望するアスリートだということだろう。

「去年のウィンブルドン準々決勝でジョー(ジョーウィルフリード・ツォンガ=フランス)に敗れた試合、そして全米オープンでのノバック(・ジョコビッチ=セルビア)戦の敗戦は、つらいものだった」

 フェデラーは今大会期間中、何度もそのように、この2試合について言及していた。昨年のウィンブルドンでは、準々決勝で2セット先取していながら、ツォンガにまさかの逆転負けを喫した。そして同年の全米オープン準決勝では、自らのサービスゲームで2つのマッチポイントを手にしていながら、ジョコビッチの信じがたいリターンエースを機に崩れ去っている。

 特にこのジョコビッチ戦は、彼のテニス観そのものを崩壊させかねない、極めて危険な敗戦であった。試合後の会見で「どうして今、自分が敗者としてここに居るのか分からない」と困惑の表情で口にした姿は、今でも忘れがたい。ジョコビッチのリターンエースに関してこぼした「僕には、あの場面で、あのようなショットを打つことが信じられない。僕は堅実な組み立てが報われると信じているから……」との言葉から見て取れるのは、未知で異質なものに遭遇した際の当惑と恐怖。窮地にあって一か八かのギャンブルに出るジョコビッチの不敵さは、精密機械のように繊細で緻密なフェデラーのプレーやテニス哲学とは相いれない。もしかしたらこのときフェデラーは、得体の知れないものの台頭に直面し、自分の信じるテニスの価値観や常識が変わりつつあることを感じていたのかもしれない。

1/2ページ

著者プロフィール

テニス雑誌『スマッシュ』などのメディアに執筆するフリーライター。2006年頃からグランドスラム等の主要大会の取材を始め、08年デルレイビーチ国際選手権での錦織圭ツアー初優勝にも立ち合う。近著に、錦織圭の幼少期からの足跡を綴ったノンフィクション『錦織圭 リターンゲーム』(学研プラス)や、アスリートの肉体及び精神の動きを神経科学(脳科学)の知見から解説する『勝てる脳、負ける脳 一流アスリートの脳内で起きていること』(集英社)がある。京都在住。

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント