大迫勇也が最終予選で味わった“生みの苦しみ”=マレーシアでエースFWが示した存在感

元川悦子

前進への大きなきっかけをつかめた

シリア戦はチャンスを作りながらもゴールを挙げることができず。悔しさの残る結果となった 【写真は共同】

 もともと大迫は、あらゆる形からゴールを量産できるストライカーとして同年代では頭一つ抜けた選手であった。2008年度の高校サッカー選手権では鹿児島城西を準優勝に導き、大会最多記録となる10ゴールで得点王に輝いた。この華々しい活躍に多くの関係者が胸をときめかせ、「日本の将来を担うストライカーが出てきた」と期待を寄せたものだ。

 直後に加入した鹿島アントラーズでも、09年3月のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)・上海申花戦でプロ初ゴールを記録。ルーキーながら、オズワルド・オリヴェイラ前監督にスタメン抜てきされる機会も何度かあった。1シーズン目から6得点(ACLを含む)をマークし、その後レギュラーをつかむなど、大迫は得点という明確な結果で自身のキャリアを切り開いてきた。当時日本代表を率いていた岡田武史監督が10年1月のイエメン戦(サナア)でA代表に招集したのも、たぐいまれな得点感覚を買ってのことだった。

 それだけ非凡な才能を持つ男が、関塚ジャパンではなぜかゴールから遠ざかってしまっていた。FWにはよくあることだが、ほかの役割に気を取られがちになり、一番の怖さを失いかけていた。最終予選で“生みの苦しみ”を味わったことで、大迫はあらためてシンプルにゴールに向かうことの重要性を再認識したに違いない。「これまでの悪循環を断ち切りたい」と試合前日にも繰り返し強調していた通り、この一発によって前進への大きなきっかけをつかめたことだろう。

関塚監督が大迫にこだわる答えが明確に

 加えて、マレーシア戦の大迫はゴール以外の部分でも光っていた。酒井宏樹が奪った35分の先制点も、大迫が中盤でしっかり体を入れて競り合ってマイボールにし、齋藤→東→原口→酒井とつなげたものだ。55分に原口が3点目を奪った際も、ゴール前でつぶれてGKを引き寄せ、原口をフリーにする手助けをしている。この時、大迫は後半開始早々に起こした脳振とうでフラフラになっていたが、ゴールへの飽くなき渇望によって、本能的に突き動かされたのだ。

「今日はサコ(大迫)が体を張ってボールをうまく保持してくれて、みんなが前向きでサポートに行けてやりやすかった」と東も話すように、この時間帯までは大迫が前線でボールを収めて確実にリズムを作っていた。関塚監督も交代させたくはなかっただろう。けれども、原口が3点目を奪った直後に出されたイエローカードを見て、即座に下げる決断をするしかなくなった。

 大迫をベンチに下げた後の日本は攻撃のリズムを失った。扇原のミドルシュートのこぼれ球を齋藤が押し込んで4点目を挙げるまでは良かったが、そこからは攻撃陣の連動性が低下。1トップに入った永井は中央で起点を作れず、終盤に投入された杉本健勇も時間が少なすぎてフィットし切れなかった。気温29度・湿度75%という高温多湿の気象条件がボディーブローのように効いた部分もあったが、途中出場したキャプテンの山村和也も「前半に比べると決定的な場面があまり作れなかった」と反省の弁を口にするしかなかった。ただ逆に、この終盤の戦いぶりによって、大迫の重要性があらためて浮き彫りになったとも言える。関塚監督がなぜ大迫の1トップ起用にこだわり続けたのか……。その答えがマレーシア戦で明確にされたのではないだろうか。

最終戦は本大会へ向けたサバイバルのスタート

 4−0の勝利が精いっぱいだった日本だが、直後の試合でシリアがバーレーンに敗れたため、最終戦は引き分け以上でロンドン五輪の切符を手にできることになった。マレーシア戦後は病院に直行し、ミックスゾーンに姿を見せなかった大迫は、残念ながら最終予選ラストゲームは出場停止。ようやく1つの壁を乗り越えたストライカーにとって、再び試練の時が訪れることになる。

 というのも、聖地・国立で行われるバーレーンとの一戦は、五輪切符獲得と同時に、本大会へ向けたサバイバルのスタートにもなるからだ。本大会では香川真司や指宿洋史らの欧州組を呼ぶ可能性もあり、また23歳以上のオーバーエージを3人加えることができる。ここまで築いてきた大迫の立場は絶対的とは言い切れない。最終戦で永井や杉本あたりがゴールを量産するようなことがあれば、大迫は再び苦境に立たされるかもしれない。大迫はどんな思いでゲームを見るのだろう……。

 そんな大迫がロンドン行きを確実にするためには、鹿島に戻ってコツコツと地道に実績を積み重ねるしか道はない。日本サッカーの将来を担う点取り屋がこれを機に一皮むけ、“ゴール前で怖い選手”へとさらなる変貌を遂げることを祈りたい。

<了>

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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