岐路を迎えた永井謙佑は苦境を抜け出せるのか=絶対的エースから見える五輪世代の環境の難しさ

元川悦子

ケガや温存を除き初のスタメン落ち

途中出場した永井(右)は山崎(左)のゴールを演出したが、ケガや温存を除き公式戦で控えに回ったのは初めてだった 【写真:杉本哲大/アフロスポーツ】

 台風一過の佐賀・鳥栖スタジアム。1−0で迎えた後半31分、U−22日本代表に待望の追加点が生まれた。清武弘嗣の浮き球のパスを右ワイドの位置で受けた永井謙佑が逆サイドにグラウンダーのボールを折り返した。これに走り込んだ山崎亮平がダイレクトでシュート。永井と山崎という昨年11月のアジア大会(広州)優勝コンビが巧みに2点目を演出した。

 関塚隆監督も「彼らはやることが非常によく分かっている」と前向きに評価した通り、2人の加入によって攻撃のテンポが確実に上がった。永井自身も「みんな足元足元だったんで、ギアを入れ替えようと、自分が裏に抜けてというのはありました」と語り、50メートルを5秒8で走る速さと、縦へ行く勢いを前面に押し出した。彼が関塚ジャパン攻撃陣のキーマンであることが、この試合を通じてあらためて実証されたといえる。

 とはいえ、アジア大会で5得点3アシストの華々しい活躍を見せたエースが、ケガや温存を除き公式戦でサブに回るのは今回が初めてのこと。関塚監督は「対マレーシアのゲームプランも考えて先発と控えを決めた」と話しており、守りを固めてくる相手に対し永井をジョーカー的に起用したい思惑があったのは間違いない。

 その一方で、指揮官は「2次予選が終わってからの所属クラブでの調子というのも1つあった」ともコメントしており、クラブでコンスタントに活躍していない永井の体力面を懸念したのも事実である。永井とポジションを争う大迫勇也は7〜8月にかけて7試合連続スタメンでリーグ戦に出ており、このところスーパーサブに定着している永井とは、明らかに差があった。

 この状況を危惧(きぐ)した関塚監督は、非公開で行われた17日の福岡大学との練習試合で永井を長時間ピッチに立たせるなど、コンディションを上げる努力を怠らなかったという。しかし、わずか6日間の事前合宿で体調をピークに持ってくるのは難しく、結局のところ永井を控えに回さざるを得なかった。やはり名古屋で出場時間が短いことは、最終予選を戦う彼にとって大きなマイナスになっているのだ。

恩師も心配する所属クラブでの起用法

 将来性ある選手がクラブの試合に出られず、成長が妨げられるという問題は、北京五輪の代表を率いた反町康治監督(現湘南)もたびたび指摘していた。
「サッカー選手はゲームをしなければ成長しない。五輪世代は試合をしながらいろんなことを感じ取る『成長世代』。(イビチャ・)オシムさんも『90分間のタフなゲームを年間100試合はやるべきだ』と言っていた。だけど、日本の場合は18〜22歳の試合環境が極端に少ない。試合に出ていないだけならまだましで、サブの選手にも調整だけさせているところも多い。浦和時代の細貝(萌=アウクスブルク)なんかはその好例で、高校を卒業して22歳までほとんど何もしてなかった。才能は抜群にあるからU−22代表に選んでいたけど、出場機会を確実に与えていたらもっと大きく伸びていたはず。彼みたいな選手が多いから、予選の試合前もコンディションのバラつきを修正するだけで終わっちゃう。五輪代表のチーム作りというのは非常に難しいんだよ」

 永井も当時の細貝と似たような状況といえる。マレーシア戦のパフォーマンスを見ても、アジア大会や今季序盤のころのキレや鋭さが失われつつあるように見受けられた。彼が最も得意としているスペースへの走りにしても、動き出しが一歩遅い。守備の運動量も以前よりやや少ない印象だった。

 福岡大の恩師・乾真寛監督も、最近の永井について、こんな見解を示している。
「サポートメンバーとして昨年の南アフリカワールドカップ(W杯)に帯同したことで、永井は『次のブラジルへ行きたい』という明確な目標を持つようになった。福岡大4年の8〜10月は、苦手だった素走りや体力強化にも自主的に取り組むなど、本人の意識にも大きな変化が見られた。それがアジア大会での活躍につながったんだと思います。今年の名古屋でのシーズン序盤も、玉田圭司らのケガがあってACL(アジアチャンピオンズリーグ)とJリーグを並行してこなすことができた。このプロデビューは予想以上でした。そんな時期と現在を比較すると、彼が100%ファイトできる場面が極端に少ない。プレー時間が短いうえ、リードした時の逃げ切り要員として起用されていることも気になります。今のままでは潜在能力の半分も引き出せないし、彼の伸びしろをつぶしてしまう可能性もあると感じます」

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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