中田久美、指導者としての新たな一歩=女子バレー

田中夕子

地位も名誉も捨てる覚悟

iPadを手に状況を見つめる中田久美 【田中夕子】

 右手に『iPad』を持ち、リアルタイムで送られる眼前の試合データとにらめっこ。檄(げき)を飛ばすどころか、表情ひとつ変えず、中田久美は試合の行方を見守っていた。

 世間がイメージする激しさはまるでなく、ただ静かに。左胸には19年ぶりにつける日の丸が輝いていた。

 2011年1月、中田久美が女子ユース日本代表チームのコーチに就任した。カテゴリーの違いこそあれ、「天才セッター中田久美」が「全日本」の指導者として新たな一歩を刻む。どんな指導をするのか。どんな選手を育てるのか。選ばれたユース代表の選手たちよりも、中田のほうが注目を集めたと言っても過言ではない。

 好奇に満ちた周囲の目を、誰より中田自身が感じていた。
「大変なのは分かっていますよ。でも、それを跳ね返すのが好きだし、いつも戦っていないと、私、死んじゃうから」

 8月の世界ユースへの帯同期間、協会から中田に支払われる報酬は1日わずか1300円。安定した報酬も、地位も、名誉も捨てる覚悟を持って、指導者・中田久美が、新たな人生を歩み出した。

 現役時代は史上最年少の15歳で全日本に選出され、19歳でロサンゼルス五輪に出場。1986年には右膝前十字靭帯(じんたい)を損傷し再起不能と言われたが、そこから奇跡の復活を果たし、88年にソウル五輪、92年のバルセロナ五輪にも出場した。三度目の五輪出場となったバルセロナを終え11月には一度現役から退いたが、95年に再び復帰し、31歳になる97年まで現役選手としてコートに立ち続けた。

 その後もモデル業やタレント活動、解説業で活躍。現役時代を知る世代は減っても、バレーボールの中田久美、として確固たるポジションを築いてきた。

 それなのになぜ今、指導者なのか。転機が訪れたのは今から5年前の2006年だった。

「日の丸を背負って戦うことの重みを」

 父がガン宣告を受け、発覚した時にはすでに末期で、病名の宣告とともに余命も告げられた。40歳になった中田は、病床の父に尋ねた。

「お父さんの人生に悔いはないの?」
「ひとつの悔いもないよ」
 あまりに潔い父の答えを、何度も反すうした。自分の命が限りある時を迎えた時、同じように「悔いはない」と言い切れる生き方をしているのか。与えられた使命、為すべき仕事をしているのか。

 問えば問うほど、自分が今立つ場所が違っているように思えてならない。まだ40歳と思っていたが、もう40歳でもある。

「バレー界に戻るのはものすごく覚悟がいること。でも、もう一度バレーの現場で、セッターを育てたい。それが自分の使命だと、気持ちが固まりました」

 芸能事務所からスポーツ選手のマネジメントを専門とする事務所に移籍し、08年にイタリアセリエAのヴィチェンツァのアシスタントコーチに就任。翌年はノヴァラでキャリアを積んだ。そして今年、ユースチームへの抜擢。
「娘ほどに年齢も違う選手たちですが、私ができるのは一つだけ。日の丸を背負って戦うことの重み、意味を伝えたいんです」

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著者プロフィール

神奈川県生まれ。神奈川新聞運動部でのアルバイトを経て、『月刊トレーニングジャーナル』編集部勤務。2004年にフリーとなり、バレーボール、水泳、フェンシング、レスリングなど五輪競技を取材。著書に『高校バレーは頭脳が9割』(日本文化出版)。共著に『海と、がれきと、ボールと、絆』(講談社)、『青春サプリ』(ポプラ社)。『SAORI』(日本文化出版)、『夢を泳ぐ』(徳間書店)、『絆があれば何度でもやり直せる』(カンゼン)など女子アスリートの著書や、前橋育英高校硬式野球部の荒井直樹監督が記した『当たり前の積み重ねが本物になる』『凡事徹底 前橋育英高校野球部で教え続けていること』(カンゼン)などで構成を担当

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